物議を醸した鳩山論文-堕ちたNYタイムスの倫理 - 北村隆司

2009年09月07日 16:21

鳩山民主党党首がニューヨークタイムスに寄稿した「日本の新しい道」と言う論文への反響は素早く、又厳しいものであった。

英米の論調は「反米傾向が強い」とか「自由競争を認めない時代錯誤の主張」など否定的なものばかりで、中には「経験の浅い幼稚な論議」と嘲笑するものもあった。


日本では、欧米の反響を紹介するものが殆どで、内容に踏み込んだものは、「鳩山さん、よく考えてください」と言うタイトルで産経新聞に寄せた岡本行夫氏の論評以外は見かけなかった。

岡本氏は「鳩山論文は繰り返しアメリカを批判する一方で、日本自身が拠(よ)って立ってきた基盤を否定している.日本はグローバリゼーションの犠牲者ではない。人、金、モノが自由に動く一体化した世界経済から利益を享受した側である。鳩山さんには、国際協調をこそ説いてもらいたかった。鳩山さんが傷つくこの英文を、なぜ誰もチェックしなかったのか。」と具体的事例を挙げて反論している。私も岡本さんの考えに近い。

厳しい反響に驚いたのか、鳩山氏は「日本の雑誌に載せたものを、その新聞社が抜粋して載せた。グローバリゼーションの負の部分だけを言うつもりはなかった。正の部分も当然ある。反米的な考え方ではないことは、論文全体を読めば分かると思う」と懸命に火消しにかかった。

時期が時期だけに時間の余裕が無い事は充分理解出来るが、署名記事で自分の主張を展開した以上、この様な通り一遍の弁解で終わって欲しくない。説得力のある反論は、世界に伍して国益を維持する立場にたった指導者としての責任であると思う。

鳩山氏の弁解を確認する為、「VOICE」に載った記事の日米両文とニューヨークタイムスの記事を比較してみた。

成る程、鳩山氏のオリジナルの論文は英文ベースで5,400字弱であるのに対し、ニューヨークタイムスに載った文章はたったの1,400字弱であるから、かなりの抜粋である。しかも、ニューヨーク・タイムスの論文のタイトルは「日本の新しい道」であるのに対し、オリジナルの論文は「私の政治哲学」とある。抜粋と言うより全く違った設題と言うべきだろう。

「VOICE」の論文は、祖父一郎氏がクーデンホフ・カレルギー伯(オーストリアの高名な思想家)の著書を翻訳出版した際、フランス革命のスローガンの一つであった「博愛」を「友愛」と訳した事から説き起こし、自分が提唱する「友愛」は柔弱どころか革命の旗印ともなった戦闘的概念だと「友愛」の意義を情熱的に訴えた一文であった。

感傷的とも思えるこの主張自体は、外国の新聞が転載する様な内容のものではなかった。ところが、鳩山氏は「日本は冷戦後、グローバリゼーションと呼ばれるアメリカ主導の市場原理主義に翻弄され続け…人間の尊厳は失われた」「グローバル経済は日本の伝統的経済活動を損傷し、地域社会を破壊した」と、日本をアメリカ主導のグローバリゼーションの犠牲者に仕立て挙げ、「友愛主義に基いてアメリカ依存を排し、東アジアに軸足を移した政策で日本の未来を再建する」という結論に導こうとした事に無理があった。

一国を率いる指導者が自己の主張を論文で発表する事は大歓迎であるが、政策論はもっと検証可能な論理性を持って欲しかった。

ここで、唐突ではあるが、「歴代首相の言語力を診断する」と言う本に関する書評の一部を引用してみたい。

『大戦中における、東条をはじめとした首相の演説には「国体、翼賛、八紘一宇」といった実態・概念ともに不明のことばが氾濫した。一方、そのあいまいさによって言語の持つ指示的機能に加え情緒的機能を活用した「言語戦略」が存在することも示している。この例としては池田首相の浅沼稲次郎追悼演説をあげている。これは国会の演説としては型破りの構成で、浅沼を称えた詩を織り交ぜ追悼することで議場がシーンとしてしまう効果は絶大だったと言われている。

言語文化学の視点では、高コンテキスト文化と低コンテキスト文化という分類が紹介されている。高コンテキスト文化では、人々が多くの背景情報を共有しており、直接的な言語によるコミュニケーションはそれほど重きをおかれない。むしろ暗黙の了解、以心伝心、察し、遠まわし、といった間接的な話し方に価値を置く社会。かたや、低コンテキスト文化の社会でははっきりとことばに出して表現する、直接的、明快な話し方といったものに価値がおかれる社会となる。二つの言語文化は日米文化の差そのものだ。たしかに、日本では話しが上手くなくても政治家として務まるというのが一般的である。言語明瞭・意味不明と揶揄された竹下やあまりしゃべることすらしなかった鈴木(善)などが高コンテキスト文化・日本の象徴的首相だった。』

「VOICE」に載せた鳩山論文「私の政治思想」で説いた「友愛論」は「和洋折衷型」論議で、英訳しただけでは「暗黙の了解」「以心伝心」「察し」といった間接的話し方の通じない米国では理解し難い。かといって、低コンテキスト文化に属すると思われる「グローバリズム批判」を、主題から切り離して抜粋しても海外の厳しい批判に耐えられる内容のものではない。寄稿した事自体が「経験不足」の表れであろう。

民主主義の定義は色々あろうが「法律や命令」が支配する制度とは異なり「説得と納得」が基礎となる世界で、説得力は指導者として欠く事の出来ない要件である。だからこそ、世界の指導者の殆どは、スピーチライターを抱え弁論を通じて世の中を説得する事に全力を挙げている。スピーチライターは、ボスを無視して自分の考えをボスに読ませる日本の官僚の原稿とは異質な物である。

民主主義で欠く事の出来ないもう一つの要件に「倫理」がある。その点、グローバリズムは倫理観に欠けていると言う鳩山論には一理がある。

鳩山氏は、ニューヨークタイムスに寄稿した事実を否定し、同紙から掲載許可依頼を受けた事も無いと弁明された。若し、此れが事実であるとすればニューヨークタイムスの犯した倫理違反は深刻である。犯罪と言っても言いすぎではあるまい。

実際はどうか? ニューヨーク・タイムスを読むと「By YUKIO HATOYAMA」とあり、クルーグマンの寄稿でも有名な「Op-Ed 」欄に鳩山氏自身がVOICEの論題を自ら「A New Path for Japan 日本の新しい道」と改題,縮刷して署名した寄稿文となっている。

昨今、米国のジャーナリズムの質の低下が話題となっている。今回の論文事件は、この批判を裏つける犯罪に近い倫理違反である。論文の内容を論ずる前に、新聞その物の品格が問われる倫理違反を犯して何の反省も無いニューヨークタイムスは糾弾されるべきである。

米国の倫理感の欠如を嘆く鳩山氏も、ご自身が被害を受けたこの非倫理的な行動に対しニューヨークタイムスに強力な抗議を突きつけるべきではなかろうか?

ニューヨークにて 北村隆司

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