鳩山論文に関する新聞記事の限界 - 松本徹三

松本 徹三

アゴラの筆者や読者にはマスメディアの内情に詳しい方が多く、またそれがアゴラに対する期待の一つでもあると思うので、既存メディアがタブー視して報じないことを掘り下げ、それを既存メディアに対する批判につなげていくことは、きわめて意義深いことだと私は思っています。


但し、私自身は、残念ながらメディアの内情にはそれ程詳しくない上に、一方で情報通信産業に携わる会社の現役の役員でありながら、一方でアゴラに実名で寄稿しているという立場上、どうしても遠慮がちな議論しか出来ないという弱みもあります。従って、この場での私の議論は、「読者(視聴者)の立場から見て、こんな状態のマスメディアに満足できるのか?」という視点だけに絞られてしまうことをご容赦下さい。

今回の鳩山論文に対する米国の識者などからの厳しい反応については、遅ればせながら9月4日の日本経済新聞の朝刊に関連記事が掲載されましたが、これを読むと、やはり紙数の限られた日刊紙の限界を感じます。これが電子新聞で、興味のある人はすぐにそこから色々なサイトにアクセスして、色々な人の色々な見解を読むことが出来れば、どんなに良いことかと思います。

この記事には、「英訳された論文の主な部分」ということで、9行5段の「抜粋」がつけられていますが、これだけを読むと、「一つの考え方を示した、特に何と言うこともない普通の内容」なので、これに米国人が予想以上に反発していると聞くと、「こんなものにさえ反発する米国人は、大人気ないというか、いつまでたっても自己中心で、多様な価値観を認めない連中なんだなァ」と思って、不愉快に思う人達も多いことでしょう。

しかし、同じ人達が、もし池田先生や北村さんが書かれていることを読まれれば、おそらくは、「成程、米国人が失望したり、懸念を募らせるのも理解できるなァ」と思うことでしょう。つまり、メディアのあり方一つで、鳩山さんに対する評価や米国人に対する一般的な評価が、こんなにも違ったものになってしまうのですから、怖いと言わざるを得ません。

おそらく、世の中の誇り高い「新聞人」は、単に事実だけを報道するのではなく、その背景や本質を見透し、それが将来もたらすであろうことを示唆するところまでやりたいでしょうが、現在の日刊紙の体制では、とてもそこまでは出来ないのは明らかです。

私が不思議なのは、そういった「新聞人」が、どうしてインターネットとの相互乗り入れをもっと真剣に考え、寝ても醒めてもその方策を模索していないのかということです。「新聞人」が自らの誇りを現在の環境化で実現しようとすれば、それしかないことはこんなにも明らかなのに、何故そういう試みが未だに行われていないのでしょうか?

池田先生が「記者クラブ」の実態について触れられた9月6日付の記事を読むにつけても、単一の取材源に群がる「日本の報道体制の後進性と非効率性」には目を覆うものがありますが、私が特に気になるのは、海外のニュースや論説に対する感度の低さです。記者クラブに屯して時間をつぶしている暇があるのなら、何故常時ウェブを精査し、興味を引く記事があれば電話で直接海外の情報源に取材したりしないのでしょうか?

私の専門である通信の関係では、大新聞で大きく報じられる記事の殆どは、総務省による「大本営発表」です。ところが、「大本営発表」の悲しさで、その多くは、日本でしか通用しない評価に基づいており、グローバルレベルでの位置づけが明らかにされているケースは稀です。海外には、世界の潮流の本質を突いた面白いニュースがたくさん転がっているのに、そういうものに対する取材意欲は殆ど感じられません。

日本人の一部には、「何故そんなにまで海外での評価に気を使わなければならないのか?」「何故何でもかんでも海外と比較しなければならないのか?」「日本には日本のやり方と価値観がある。何故それに誇りをもてないのか?」等と言って、殊更に海外からのニュースや論説に不快感や苛立ちを示す人達が、少なからずいるように思います。しかし、これは極めてローカルな現象(誤解をされると嫌なので「田舎者」という言葉は私は使いません)であり、他の国ではあまり例のない現象です。

海外の評価に気を使わなければならない理由は明白です。それは、日本は「グローバル経済」の中でしか生きられないし、「グローバル経済」は諸外国(勿論、米国だけではありません)の政治と世論の影響を強く受けるからです。

どんなことであれ、「海外と比較すること」は極めて有益です。比較するものがなければ、人は独善に陥りますし、海外でより良いものやより良い考えが見つかれば、それを参考にして自らが進化できるからです。比較検証もしないで何かを誇りにしていれば、「誤った誇りにとらわれていたばかりに、進歩を遠ざけてしまった」という危険を生じます。

「『ネット』と『海外』を意識しない新聞人は、まともな新聞人とは言えない」ということが常識となる日が一日も早く早く来ることを、一人の日刊紙の読者として強く望んでいる次第です。

松本徹三

コメント

  1. clydemender より:

    一部の情報を意図的に報道しなかったり、世間が興味ある情報だけ(また世間が興味ある形に作り上げて)取り上げる、というのはシステムの問題で仕方ないのかも知れませんが、複数の報道機関の間で適正な競争が成り立っておらず、インターネットでそれが補完されつつあるように感じます。これから記事の責任者やソースを明確にするといった情報のバリデーションがいっそう要求されるようになるでしょう。ネットは特にコピーアンドペーストを繰り返して情報が伝播される機構もあります。「日本人は世界からどう見られているか」は興味深いトピックなので、そういう観点のニュースはもっとあっても良いと思います。

  2. なかなか一つの問題を多角的に取材することが難しいのかもしれないが、完全に偏った報道がされることが多い。草原の生態を追う際に、ライオンからの視点から餌食となるネズミを見ればそれは餌食としてのネズミとして映るし、ネズミの視点からライオンを見れば「ライオンは恐ろしい。ネズミがかわいそうだ」という内容になる。俯瞰的に草原がどういうところなのかということを伝えることが難しいのだろうがそれを目指すこともして欲しい。

  3. bobbob1978 より:

    「世の中の誇り高い「新聞人」は、単に事実だけを報道するのではなく、その背景や本質を見透し、それが将来もたらすであろうことを示唆するところまでやりたいでしょうが、」

    これは随分好意的な解釈ですね。私などは、新聞人たちは読者が自分と同じ価値観を持つよう誘導しているようにすら感じます。おそらく彼等は国民を「啓蒙」しようとしてくれているのでしょう。しかし、彼等のような新聞人が考える啓蒙は偽物です。「啓蒙」とは「真実を与える」ことではなく「何が真実かを考える思考力を育てる」ことです。「何が真実かを考える思考力を育てる」点において現在の新聞はインターネットの足元にも及びません。新聞人が「啓蒙=真実を与えること」と言う独善から脱却しない限り新聞の未来はないでしょう。

  4. アンチ巨人、アンチナベツネ より:

    松本様の格調高く、見識に富んだ文章には、いつも敬服しておりましたが、オールドメディアの弊害に対してはやや目をそらそうとしておられる印象がありました。今回、自分のお立場から、メディア批判に腰がひけがちになる理由を説明されたのはご立派であります。ただ、わが国の最大の問題点はまさにここにあります。先日、日体大教授がのぞき目的で民宿に潜んでいて逮捕され、実名報道されました。しかしテレビ局社員が婦女暴行した件は報道もされず、解雇もされません。このような理不尽が社会にある以上、地位のある方は誰もマスコミの矛盾を指摘できません。自分は家族も含め被害にはあっていませんが、報道被害の方にかかわった経験がありますが誠に悲惨です。他の点はともかく、これだけは変えていかないとまともな社会ではありません。

     http://blog.livedoor.jp/ksytkak/archives/757095.html

  5. oh3ho より:

    「グローバル」や「グローバル経済」に中立的態度というものがあるのでしょうか。所謂「グローバル」は、国によって解釈が違うことは明らかで、アメリカの「グローバル」が都会で日本の「グローバル」が田舎というのは、あまりにも自虐的です。
    アメリカ高官の中国の人民元切り上げの言及に、中国メディアは、アメリカ国債売却報道で対応しました。弱みをつつきあい強みを誇示するのが外交と思いますが、これまで、同じカードを切ってきた日本が、これから古いカードを切るのか、新しいカードにするのか、こんな議論がようやく出来るようになったのが今回の政権交代であり、状況を察し、NYTがアメリカの利益を代表し、ジャブを放ったのは、日本に危険と恐怖を感じさせる意味では流石とは思いますが、東洋の美学に欠けます。分かるか分からないかは別として、中国メディアには、独自の美学を感じます。そして、日本のメディアは、例えば「日本政府は、富士山より高きに登ろうとは思っていないようだ。」ぐらいを記事にするのが美的対応ではないでしょうか。

  6. sponta0325 より:

    すべては放送と通信の違いから発生しているのです。

    放送と通信の差は、1対多、双方向などの視点もありますが、私が指摘したいのは、オーソライズする権力の特質です。

    テキストの価値がオーソライズするものの存在によって、大きく変わっていく。それがメディアと通信の差。つまりは、新聞社を名乗っていても、新聞の体裁をしていても、読者が一人ではメディアと名乗るのは無為なのです。

    そのような構造をメディア人は隠蔽し、真実・客観を装う。オーソライズしている人たちの偏向した言論の存在を知られたくない。
    そして、通信の側は、オーソライズするものが個だけであり、それをオーソライズするものがない。しかし、通信であろうとも統合することで、マスメディアに匹敵するオーソライズを発生することができる。

    私は今回の鳩山論文について、池田先生の論考を諾と思うのですが、それさえ、池田信夫という知名度においてオーソライズされている情報でしかない。

    やはり、通信の側でいる松本さんが、何らかの行動を起こすことこそが、メディアを変革していくことではないか。と、思えてならないのです。

  7. sponta0325 より:

    すべては放送と通信の違いから発生しているのです。

    放送と通信の差は、1対多、双方向などの視点もありますが、私が指摘したいのは、オーソライズする権力の特質です。

    テキストの価値がオーソライズするものの存在によって、大きく変わっていく。それがメディアと通信の差。つまりは、新聞社を名乗っていても、新聞の体裁をしていても、読者が一人ではメディアと名乗るのは無為なのです。

    そのような構造をメディア人は隠蔽し、真実・客観を装う。オーソライズしている人たちの偏向した言論の存在を知られたくない。
    そして、通信の側は、オーソライズするものが個だけであり、それをオーソライズするものがない。しかし、通信であろうとも統合することで、マスメディアに匹敵するオーソライズを発生することができる。

    私は今回の鳩山論文について、池田先生の論考を諾と思うのですが、それさえ、池田信夫という知名度においてオーソライズされている情報でしかない。

    やはり、通信の側でいる松本さんが、何らかの行動を起こすことこそが、メディアを変革していくことではないか。と、思えてならないのです。

  8. freekaos より:

    日本の新聞社を記事というソフトを売って利益を得るソフト産業だと勘違いしている方は多いと思いますが、実態は巨大なインフラによって利益を得ている装置産業です。
    1日に何百万部もの新聞紙を印刷できる輪転機を各所に所有し、印刷所から販売店、販売店から各家庭へと配達する情報伝達インフラを整備しているのです。
    このような日本以外には存在しない巨大なインフラを整備し、公称何百万部という看板を掲げて、広告を募り利益を得ています。新聞紙という器に情報をのせて各家庭へ配達する情報伝達インフラこそが新聞社にとっての最大の商品であるわけです。新聞紙は情報を乗せる器ではないのです。
    日本の新聞社の利益構造がわかるとインターネットは新聞紙による情報伝達インフラを脅かす敵であることが理解できます。これは新聞社のネットに対する姿勢からも伺えるでしょう。
    ですから情報伝達インフラとして競合するインターネットに日本の新聞社が乗り換えることはできないでしょう。自らの最大の商品を捨てて新たな収益構造を築くのは非常に勇気のいることですからね。

  9. sponta0325 より:

    >日本の新聞社の利益構造がわかるとインターネットは新聞紙による情報伝達インフラを脅かす敵であることが理解できます。これは新聞社のネットに対する姿勢からも伺えるでしょう。
    ですから情報伝達インフラとして競合するインターネットに日本の新聞社が乗り換えることはできないでしょう。自らの最大の商品を捨てて新たな収益構造を築くのは非常に勇気のいることですからね。

    私は2007年、日本新聞労働組合連合のイベントでパネラーをしたことがありますが、たしかに「インターネットに乗り換える」のは難しいが、もしインターネットに乗り換えることができるなら、あなたたちは「新聞というブランド力」を持っているから、一番成功しやすい。と、説きました。
    とはいえ、問題はあって、それは、新聞記者たちが「自分達の国語力・情報分析力でユーザーを見下す」姿勢を改めない場合です。
    JANJAN、ライブドアPJ、オーマイニュースなどが社会的存在にまで成長できなかったのは、マスディストリビューションの君臨者としての自らの立場を脱皮できなかったからです。

  10. sponta0325 より:

    >日本の新聞社を記事というソフトを売って利益を得るソフト産業だと勘違いしている方

    についてですが、すでにそのような単純な構図でもなくなっています。つまりは、新聞社の経営は読者の購読料だけで成り立っているのではなく、広告主の広告費や折込チラシの利益がかなりの収益の割合を占める。とすれば、多角的な経営戦略は成立する。

    ならば、多様なメディアがある大都市圏はまだしも、地方都市なら新聞は情報センターとして第一のブランドのはず。そのブランド力を生かすならば成功は間違いないし、インターネットを主軸にすえるとともに、不用人員を整理すれば少なくとも原状よりはましになるはず。
    とはいえ、新聞人たちは自分達のプライドをなかなか捨てられないため、インターネットに積極的になれない。なぜなら、彼らは取材は足で稼ぐもの、原稿は紙に書くものという「インターネットを軽蔑する文化」を育んできたのですから。

  11. sponta0325 より:

    昨今のTWITTERの流行は、情報の価値において、文章の出来・不出来が一切関係ないことを示唆しています。私は、日本新聞労働組合連合のイベントで、「新聞記者が自らの文章作成能力を誇っていてはダメ」と指摘しましたが、朝日新聞の記者さんは怪訝な顔をしたままでした。
    あれから2年経って、TWITTERが出てきて、同じことを思う方が増えているかもしれません。

    世界的の通信機器メーカーのノキアは材木会社だったといいます。日本の新聞社がIT会社になることもそんなに不自然なこととは思えないのですが…。