日本では、今から35年前に書かれた山崎豊子さんの「不毛地帯」のTVドラマが今ブレークしていて、特に若い世代の視聴者に人気が高いと聞かされました。主人公の壱岐正中佐のモデルとされる瀬島龍三氏は、私の伊藤忠時代の雲上人とは言え、直接接触があった方だけに、多いに関心を持ちました。
「不毛地帯」では伊藤忠社内の権力闘争がすさまじく描かれているようですが、どうも現実とは相当違っているようです。私は下々の社員でしたからあまり良く分かりませんでしたが、上層部に近かった私の元同僚は、下記の様に語っていました。
「当時の伊藤忠で、秘かに『N−S戦争』と呼ばれた確執があったのは事実だ。Sは瀬島副社長(当時)、Nは、TVに敵役で出てくる里井専務のモデルと目される機械部門担当の副社長のことだ。しかし、この両者の対立は、主として『現場主義』の考え方と『参謀主導』の考え方の相違から来るものだった。」
「TVでは壱岐さんが善玉、里井専務が悪玉となっているが、現実の世界では、両人とも会社のことを思って一生懸命働いていた方々で、ただ、『ビジネスの進め方に関する考え』が若干違っていただけだった。政治が関係するような世界になると、Nさんは瀬島さんに遠く及ばなかったが、ビジネスの現場では、社員の中でも瀬島さんのやり方に対する批判は結構大きく、瀬島さんが越後社長の統帥権を盾に色々なことをかなり強引にやったことに対する反発が、社長交代後に一気に吹き出したのも事実だ。」
私は、最初の米国駐在から帰国した1969年に、声の大きさを見込まれて組合の幹部に就任した事から、瀬島さんとの接触が始まりました。会社側の労務責任者である彼が団体交渉に全く姿を現さない事から、私は彼にゲリラ闘争を挑みました。
当時の瀬島さんは、伊藤忠の「社員規定」「組織分掌規定」「職務権限規定」などを一から整備され、それまでは「前垂れ商法」のやり方が残っていた伊藤忠を、近代的な企業に変えた人物とされていますが、伊藤忠に権威主義、官僚主義、派閥を持ち込んだ人物として批判する人も多くいました。労働組合活動に対する規制も、社内規則を厳格に活用した容赦ないものでした。
一方、当時の組合の実情は、店限社員であった女子社員や一部の男子社員を除くと、大半の社員が大学卒の男子で、「いつかは経営者になりたい」と考えている社員達の集まりでしたから、口では大言壮語しても、ストは勿論、会社の意向に反する行動は何もとれない「御用組合」に過ぎなかった事も事実です。
そこで、私は、組合員の感情を高ぶらせる為に、交渉の場での会社側の刺激的発言を録音して社員に聞かせるなど、ゲリラ的アジ戦法を取りました。そうすると、社員の組合に対する関心が異常なまでに高まり、「瀬島さんが交渉の場に出ないのはけしからん」という雰囲気が出てきました。
ようやく組合との交渉の場に出てきた瀬島さんは、「座談の名手」の才能を遺憾なく発揮されました。瀬島さんが中心になって作成した伊藤忠の未来図、「ワールド・エンタープライズ5ヵ年計画」というものを、沈着、冷静に説明され、「会社を信用してついて来る事が社員の為にもなる」と説得にかかりました。
こうなると、同じ土俵では対抗できない私は、ゲリラ戦術で行くしかありません。当時続発した「綿糸」「絹」「為替」等の相場失敗での巨額な損失がこの「5ヵ年計画」に折り込まれていない事の説明を求めますと、瀬島さんは沈黙、代って人事担当の常務が、「ご指摘のように、当社には古い伝統的な取引も残っており、云々」と答弁されたので、これを機に、組合側の気勢が一気に挙がりました。
しかし、組合の気勢で待遇改善に同意するほど会社は甘くはなく、全く譲歩する気配はありません。考えあぐねた私は、合法的で、且つ安価な闘争方式として、「ちんどん屋作戦」を考え出しました。「東京本社に近い東京駅、三越前駅、神田駅に、ちんどん屋さんを数組ずつ派遣してもらい、組合側の言い分をここで通行人に開陳する。新聞記者を現場に招き、当時は洒落た(現代語でクールな)会社の代表であった貿易商社の『人権闘争』だとして、面白おかしく報道してもらう」と、会社側に通告したのです。
社長の統帥権の代行者として伊藤忠を統治してきた瀬島さんの最大の弱点が、当時の越後社長のご機嫌である事は明白でした。典型的な関西商人でありながら、「みっともない」と思われる事の大嫌いな越後社長が、伊藤忠の組合が「ちんどん屋」を使ったなどと新聞に書かれたら、怒り狂うことは間違いありません。そうなれば、お気に入りの瀬島さんにも雷が落ちるだろうと、私は読んだのです。
果たして、「チンドン屋闘争」の通告を受けた人事担当常務と人事部長は、大慌てで私に面談を求め、「北村。お互いに横綱相撲を取ろうじゃないか。けたぐりみたいな手は使うなよ」と懇願してきました。しかし、私はここが勝負どころと考え、「チンドン屋は合法的広告手段で、要求が通るまで止めるつもりはありません」と突っぱねました。
その翌日、社内では神様のような存在であった瀬島さんが、珍しくも私の上司の本部長席に飄々とやってきて、本部長のデスクの前に座り込み、何か仕事の話をし始めました。「ははあ、本当はこの俺が目当てだな」と私は見透かしましたが、果たして、瀬島さんは、偶然にも私を見つけた素振りをして、「おう、北村君はここだったのか!」と声を掛けながら、私の席のところまでわざわざ来られました。
「暇な時は、僕の部屋に来て、お茶でも飲みながら話を聞かせて呉れよ」という有難いお言葉を頂きましたが、私は動じませんでした。神格化された瀬島専務に声を掛けられたら、普通の平社員は感激、恐懼します。勿論、瀬島さんは、そのことを想定した上で、こういう作戦を考えられたのでしょう。しかし、私としては、その術中にはまるわけには行きません。ですから、組合の幹部在籍中は、私が瀬島さんのお部屋にお邪魔することは一度もありませんでした。
この様なやり取りの後、組合の要求の殆どを会社側が飲む形で、我々はその年の交渉を終えることが出来ました。大規模な正規戦と異なり、想定外の事が頻繁に起こるゲリラ戦には、「参謀」は意外に弱いようです。火力、兵力で圧倒的な米軍が苦戦したヴェトナム戦争やアフガン戦争の例からも、このことは証明されている様に思えます。私のささやかな「瀬島参謀との戦い」は、そのことを実感させてくれたよい経験でした。
毀誉褒貶が分かれる瀬島さんですが、その記憶力、整理力、知識力、話術、どれ一つとっても並大抵の方ではありませんでした。瀬島さんが現在の中学2-3年の年齢にあたる仙台幼年学校1年生の時に、全国幼年学校作文大会で優勝した時の文章を見せて頂いた事がありますが、漢詩を豊富に交えたその作文には、ただただ驚かされるばかりでした。
組合時代の「戦争」のご縁で、瀬島さんはその後も何時までも私のことを覚えていて下さり、その後ずっと米国に駐在することになった私の話も、時折聞いてくれました。尤も、そういう折には、私の話を聞くよりは、ご自分のことを話されることの方が、やはり多かったように思います。
「中曽根元首相とは、木川田元東電社長の主宰する電力業界トップの勉強会で、自分が定期的に進講していたことが縁で親しくなった」「田中元首相は、拘置所から出所したその日に、真っ先に自分に電話をしてきた」「対日賠償権を放棄してくれた当時のセイロン(現スリランカ)首相の来日にあたり、天皇陛下にお礼を言っていただくよう自分がお願いした」等々、私にとっては一生忘れられない多くの逸話を、そのおかげで私は直接お伺いすることが出来たのです。
「参謀が兵隊を動かす時、人の血を思い出すようでは務まらない」という言葉も、私は瀬島さんから直接聞きました。「この非人間的な参謀教育が日本の悲劇を生んだ原因の一つかも知れない」と思いつつも、その時はやはり襟を正して聞き入りました。賛否や好き嫌いは別として、瀬島さんという人が、色々な面で並外れた人物であった事は、間違いないと思います。
ニューヨークにて 北村隆司
「当時の伊藤忠で、秘かに『N−S戦争』と呼ばれた確執があったのは事実だ。Sは瀬島副社長(当時)、Nは、TVに敵役で出てくる里井専務のモデルと目される機械部門担当の副社長のことだ。しかし、この両者の対立は、主として『現場主義』の考え方と『参謀主導』の考え方の相違から来るものだった。」
「TVでは壱岐さんが善玉、里井専務が悪玉となっているが、現実の世界では、両人とも会社のことを思って一生懸命働いていた方々で、ただ、『ビジネスの進め方に関する考え』が若干違っていただけだった。政治が関係するような世界になると、Nさんは瀬島さんに遠く及ばなかったが、ビジネスの現場では、社員の中でも瀬島さんのやり方に対する批判は結構大きく、瀬島さんが越後社長の統帥権を盾に色々なことをかなり強引にやったことに対する反発が、社長交代後に一気に吹き出したのも事実だ。」
私は、最初の米国駐在から帰国した1969年に、声の大きさを見込まれて組合の幹部に就任した事から、瀬島さんとの接触が始まりました。会社側の労務責任者である彼が団体交渉に全く姿を現さない事から、私は彼にゲリラ闘争を挑みました。
当時の瀬島さんは、伊藤忠の「社員規定」「組織分掌規定」「職務権限規定」などを一から整備され、それまでは「前垂れ商法」のやり方が残っていた伊藤忠を、近代的な企業に変えた人物とされていますが、伊藤忠に権威主義、官僚主義、派閥を持ち込んだ人物として批判する人も多くいました。労働組合活動に対する規制も、社内規則を厳格に活用した容赦ないものでした。
一方、当時の組合の実情は、店限社員であった女子社員や一部の男子社員を除くと、大半の社員が大学卒の男子で、「いつかは経営者になりたい」と考えている社員達の集まりでしたから、口では大言壮語しても、ストは勿論、会社の意向に反する行動は何もとれない「御用組合」に過ぎなかった事も事実です。
そこで、私は、組合員の感情を高ぶらせる為に、交渉の場での会社側の刺激的発言を録音して社員に聞かせるなど、ゲリラ的アジ戦法を取りました。そうすると、社員の組合に対する関心が異常なまでに高まり、「瀬島さんが交渉の場に出ないのはけしからん」という雰囲気が出てきました。
ようやく組合との交渉の場に出てきた瀬島さんは、「座談の名手」の才能を遺憾なく発揮されました。瀬島さんが中心になって作成した伊藤忠の未来図、「ワールド・エンタープライズ5ヵ年計画」というものを、沈着、冷静に説明され、「会社を信用してついて来る事が社員の為にもなる」と説得にかかりました。
こうなると、同じ土俵では対抗できない私は、ゲリラ戦術で行くしかありません。当時続発した「綿糸」「絹」「為替」等の相場失敗での巨額な損失がこの「5ヵ年計画」に折り込まれていない事の説明を求めますと、瀬島さんは沈黙、代って人事担当の常務が、「ご指摘のように、当社には古い伝統的な取引も残っており、云々」と答弁されたので、これを機に、組合側の気勢が一気に挙がりました。
しかし、組合の気勢で待遇改善に同意するほど会社は甘くはなく、全く譲歩する気配はありません。考えあぐねた私は、合法的で、且つ安価な闘争方式として、「ちんどん屋作戦」を考え出しました。「東京本社に近い東京駅、三越前駅、神田駅に、ちんどん屋さんを数組ずつ派遣してもらい、組合側の言い分をここで通行人に開陳する。新聞記者を現場に招き、当時は洒落た(現代語でクールな)会社の代表であった貿易商社の『人権闘争』だとして、面白おかしく報道してもらう」と、会社側に通告したのです。
社長の統帥権の代行者として伊藤忠を統治してきた瀬島さんの最大の弱点が、当時の越後社長のご機嫌である事は明白でした。典型的な関西商人でありながら、「みっともない」と思われる事の大嫌いな越後社長が、伊藤忠の組合が「ちんどん屋」を使ったなどと新聞に書かれたら、怒り狂うことは間違いありません。そうなれば、お気に入りの瀬島さんにも雷が落ちるだろうと、私は読んだのです。
果たして、「チンドン屋闘争」の通告を受けた人事担当常務と人事部長は、大慌てで私に面談を求め、「北村。お互いに横綱相撲を取ろうじゃないか。けたぐりみたいな手は使うなよ」と懇願してきました。しかし、私はここが勝負どころと考え、「チンドン屋は合法的広告手段で、要求が通るまで止めるつもりはありません」と突っぱねました。
その翌日、社内では神様のような存在であった瀬島さんが、珍しくも私の上司の本部長席に飄々とやってきて、本部長のデスクの前に座り込み、何か仕事の話をし始めました。「ははあ、本当はこの俺が目当てだな」と私は見透かしましたが、果たして、瀬島さんは、偶然にも私を見つけた素振りをして、「おう、北村君はここだったのか!」と声を掛けながら、私の席のところまでわざわざ来られました。
「暇な時は、僕の部屋に来て、お茶でも飲みながら話を聞かせて呉れよ」という有難いお言葉を頂きましたが、私は動じませんでした。神格化された瀬島専務に声を掛けられたら、普通の平社員は感激、恐懼します。勿論、瀬島さんは、そのことを想定した上で、こういう作戦を考えられたのでしょう。しかし、私としては、その術中にはまるわけには行きません。ですから、組合の幹部在籍中は、私が瀬島さんのお部屋にお邪魔することは一度もありませんでした。
この様なやり取りの後、組合の要求の殆どを会社側が飲む形で、我々はその年の交渉を終えることが出来ました。大規模な正規戦と異なり、想定外の事が頻繁に起こるゲリラ戦には、「参謀」は意外に弱いようです。火力、兵力で圧倒的な米軍が苦戦したヴェトナム戦争やアフガン戦争の例からも、このことは証明されている様に思えます。私のささやかな「瀬島参謀との戦い」は、そのことを実感させてくれたよい経験でした。
毀誉褒貶が分かれる瀬島さんですが、その記憶力、整理力、知識力、話術、どれ一つとっても並大抵の方ではありませんでした。瀬島さんが現在の中学2-3年の年齢にあたる仙台幼年学校1年生の時に、全国幼年学校作文大会で優勝した時の文章を見せて頂いた事がありますが、漢詩を豊富に交えたその作文には、ただただ驚かされるばかりでした。
組合時代の「戦争」のご縁で、瀬島さんはその後も何時までも私のことを覚えていて下さり、その後ずっと米国に駐在することになった私の話も、時折聞いてくれました。尤も、そういう折には、私の話を聞くよりは、ご自分のことを話されることの方が、やはり多かったように思います。
「中曽根元首相とは、木川田元東電社長の主宰する電力業界トップの勉強会で、自分が定期的に進講していたことが縁で親しくなった」「田中元首相は、拘置所から出所したその日に、真っ先に自分に電話をしてきた」「対日賠償権を放棄してくれた当時のセイロン(現スリランカ)首相の来日にあたり、天皇陛下にお礼を言っていただくよう自分がお願いした」等々、私にとっては一生忘れられない多くの逸話を、そのおかげで私は直接お伺いすることが出来たのです。
「参謀が兵隊を動かす時、人の血を思い出すようでは務まらない」という言葉も、私は瀬島さんから直接聞きました。「この非人間的な参謀教育が日本の悲劇を生んだ原因の一つかも知れない」と思いつつも、その時はやはり襟を正して聞き入りました。賛否や好き嫌いは別として、瀬島さんという人が、色々な面で並外れた人物であった事は、間違いないと思います。
ニューヨークにて 北村隆司





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瀬島さんとの思い出を興味深く拝見しました。うらやましい限りです。
今、私が勤めている中小企業で同じ組合活動をすれば間違いなくクビです。配置換えではなく即刻クビです。不当を訴えて、たとえ裁判で勝っても復帰できるわけでなく、その間の生活を考えると得るものはありません。黙って従うか、辞めていくかです。
自分を振り返ると最終的には辞めて転職していますが、私の実力では名前も実力もない企業への転職で、結局は転職が一時しのぎでしかありませんでした。
北村さんの時代が良かったのか、それとも自分が不甲斐ないのか・・・。なんとなく自分に気概がなかったような気もします・・・。武士は食わねども高楊枝。やはりご飯食べたいな・・・。