「信用される日本人」をどう生かすか?

松本 徹三

世界のどんな国の人間でも、自分たちが他の国の人たちからどう思われているかは気になるようだ。しかし、その中でも、日本人は最たるものではあるまいか? それ故「日本人論」に類する本は山のように出ており、どんな本でもかなりよく売れるようだ。


確かに、日本人は全般的にみて他国の人たちと比べてかなり異なった特質を持っているように思われ、ずっと長い間外国人と一緒に時を過ごす事が多かった私なども、しばしばその事について外国人に説明したい誘惑に駆られる事が多かった。しかし、最近はもうそういう事は面倒になった。

それというのも、「日本人論」を語り始めると大体においてステレオタイプになってしまうからだ。「士農工商(武士道に対する憧れ)」「タテ社会」「恥の文化」「建前と本音の使い分け」「ムラ社会」「異質なものに対する拒否反応」「空気の支配力」「曖昧さの許容」「甘えの構造」等々だ。これらの全ては、とどのつまりは、海に守られてきた(阻まれてきた)という「日本の地理的な条件」と、それがもたらした「内に向かって凝結する文化」の産物なのだが、こういう特質を外国人に説明してみても、あまりピンとはこないし、少し不思議そうに「ふーん」というだけで、彼等の更なる興味を刺激するには至らない。

さて、死ぬ前にもう少し結果の残る仕事をしたいという気持ちが強くなった昨今の私は、もはや評論的な「日本人論」には興味はなく、興味があるのは次の二点だけだ。今日はその事について語りたい。

1) 日本人には確実に高い「信用」があるのに、それが海外での仕事を成功させる為にあまり生かされていない。どうすれば海外での仕事でこの特質をもっと生かせるか?

2) それだけ「信用」があるにもかかわらず、何故日本の会社はグローバルな競争の中で、単独或いは他国のパートナーと組んで、成功するケースが少ないのか? どうすれば改善が出来るのか?

欧米人や中国人の一部で、まだ実際に日本人と一緒に仕事をした事のない人たちの中には、日本人に対してなお若干の不信感を持っている人たちもいるかもしれないが、ここ数十年で日本人と仕事をした経験のある人なら、その殆どは、日本人を「世界のどの国の人間よりも信用がおける」と考えているのではなかろうか?

「信用」とは何かと言えば、要するに「嘘をつかない」「約束を守る」の二点に尽きる。極めて単純な事だ。「品質について妥協しない(完璧主義)」「際限もなく利益を追求するような事はしない」「社員との絆を何よりも重視する(家族的経営)」等々も、日本人の経営者や技術者、更には一般のビジネスマンが世界で「信用」を勝ち得ている理由の一つだが、こちらの方はそんなに分かりやすいものでもないし、後述する「問題点」とも紙一重のところがある。

私は1962年に大学を出て商社に入り、機械の輸出部門に配属されたので、配属された途端に先輩たちから「どの国の人間は信用が出来、どの国の人間は信用が出来ないか」を伝授された。「日本人」は対象外だったから、この時は圧倒的に「中国人(主として東南アジア在住の華僑)」がトップで、それから、インド、イラン、アルメニア、レバノン・シリアと西へ行くにつれて評価が落ちたのを記憶している。(その部署の仕事の性格上、ユダヤ人や欧米人は評価の対象にはならず、韓国人はまだビジネスの相手になるには至っていなかった。)

尤も、ここでいう「信用がおけない」というのは、「こちらがぼんやりしていると、騙され、食い物にされる」という意味であり、こちらがプロであれば、こういう手合いと交渉をするというのは、まあ「じゃれ合って」いるようなもので、何という事はない。

それから、文化の違いも「信用」に大きな影響を与える事を忘れてはならない。中国人は「儒教」の本家本元で、日本人同様「人間と人間との間の信義」を常に重視するが、西方のイスラム教諸国では、神と人間の関係が何よりも重要なので、「神の思し召しがあれば(インシャラー)」他の人間との約束事などはどうでも良くなるわけだから、信用出来なくなるのは当然だ。

さて、現在、東南アジアからインドに至るアジアの人たちと話していると、圧倒的に信用があるのは日本人で、多くの人たちが「もし日本人と組んで仕事が出来ればどんなに良い事か」と思っているのが手に取るように分かる。欧米人は勿論一目も二目もおかれているが、総じて傲慢と思われており、中国(本土)人もかなり警戒されている。韓国人は商品の競争力では強くなったのに、率直に言ってあまり信用されていない。

しかし、信用はあっても、日本人に対する不満も多い。「話が回りくどく、ズバリと核心に踏み込んでこない」「やる気があるのかないのかがなかなか分からない」「誰が決定権限を持っているのかがよく分からず、決定が遅い」「合理的な説明がないままに、絶対的な目標が提示され、それに固執する」等々だ。

また、私が客観的に見ているところでは、明治初期の「脱亜入欧」の影響か、多くの日本人には未だに何となくアジアの人たちを下に見る気風があるように思える。人には当然それぞれ得手不得手があるが、多くの人たちは自分が得手としているところで相手と比較し、自分が不得手のところでは相手の優れた能力が見えなくなってしまう傾向があるので、アジアの人たちが日本人を立ててくれればくれる程、この傾向が更に高まってしまうのかもしれない。これについては、これからは十分に注意していかなければならない。

人間の持つ一つの傾向には、「長所と見做される要素」と「弱点と見做される要素」が混在しているのが普通である。これは、右から見れば赤く見え、左から見れば緑色に見える「玉虫色」の布地に似ている。外国人とパートナーシップを組んで仕事をする時には、この事を良く自覚し、前述したような「問題点」を丁寧に修正していく事が必要だ。決して一人合点になってはならない。問題点が修正されていけば、結果として、日本人の持つ良い側面が誰の目にも明らかに浮き出してくる筈だ。

何れにせよ頭打ちにならざるを得ない日本市場に対し、アジア、アフリカ、中南米の発展途上国市場には、比較にならない程大きな潜在力があるのは間違いない。日本人は、自分たちには「信用力」というかけがえのない強みがある事を自覚し、且つ、これと表裏の関係にある弱点は、その気になれば容易に克服出来るものであるという事もよく理解して、積極的に日本の外に出て行くべきだ。