私は2009年のアゴラ創設以来ずっと、「政治」「外交」「経済」「教育」「歴史」および本業の「情報通信技術」に関連する記事を主体に、合わせて数百本にも及ぶ規模で投稿してきていましたが、昨年の9月4日に「この世界のどこかで、AIは既に『神』になっているかもしれない」と題する記事を書いて以来、10ヶ月近くもの間休筆してきました。
本業に関連するところで、相当の注力を必要とするプロジェクトに遭遇したのがその理由でしたが、この間に思い立って、「AIが神になる日」と題する本(副題は「シンギュラリティーが人類を救う」)を一冊書き上げました。この本は7月12日にSBクリエイティブより発売されますが、これを機会に、アゴラでも、これから4回にわたってこの問題を語らせて頂きたいと思っています。
シンギュラリティーの到来を意識せずに未来は語れない
というのも、現在の日本におけるAI論は、極めて卑近な「ビジネス面での利用方法」などの議論に限られており、AIが不可避的に到達するだろう「シンギュラリティー」についての議論はほとんど見られないからです。AIは、コンピューターアプリの高度化に他ならず、どんなアプリでも「これはAI技術を使ったものだ」と言えないことはありませんから、このような風潮も別に批判する必要はありませんが、AIがそんなもので終わると思っていたら、大変な間違いです。
AIの本来の意味は「人間の頭脳の完全な代替」ですが、それが一定の時間内に行う仕事量は半端ではなく、人間が寄ってたかってやる仕事量の数千倍、数万倍にも及ぶものを難なくいこなしてしまうでしょう。また、人間の頭脳の完全な代替ができるのなら、当然天才の仕事も代替できるということですから、数万人のアインシュタインを昼も夜も休みなく働かせるようなことも、可能になることを意味します。
こうなると、進化したAIは次第に自らの弱点を見抜き、これを克服した「次世代のAI」を自ら創り出すことになります。コンピューターが自ら行う技術革新は、人間がやるものと比べて、スピードが全く違います。一旦方向性が定まれば、思い悩むこともなく一途にやりますし、横の繋がりにも一切遺漏がないので、発展は幾何学級数的に拡大し、あれよあれよと言う間に、全く想像もしなかった様な世界が実現する可能性は大いにあるのです。
この様なことが実現する「転換点」を、英語では「シンギュラリティー(技術的特異点)」と呼んでおり、欧米のコンピューター技術者の間では、現在ごく普通の話題になっています。日本は例によって例の如しで、生真面目すぎる日本人の性格が災いしてか、「現状の改善」に焦点が絞られすぎ、「とんでもない様な可能性」に言及することを忌避する傾向が見られます。こうしているうちに、米国や中国、ロシアやイスラエル等に大きな差をつけられてしまうのではないかと心配です。
行き詰まりつつある民主主義
AIを利用する事がもたらすメリットは、今後色々な分野で次々と顕在化していくでしょうから、AIは放っておいても急速に進化していくでしょう。にもかかわらず、私が何故ここへきて急に声を上げ始めたかといえば、それは、現在「曲がり角」にきていると思われる「政治と経済の運営」に、AIが一つの回答をもたらす可能性がある事を感じ始めたからです。
政治については、人類がこれまで色々な紆余曲折を経ながら、何とか築き挙げてきた「民主主義」というものが、今ここにきて、深刻な疑念に直面している様に、私には思えます。それは「ポピュリズム」という罠です。
「民主主義」の対極にあるものは、歴史的には「絶対王政」であり、それに続く「種々な衣を被った独裁制」です。「絶対王政」は、フランス革命の例に見られる様に、「支配者が意のままに動かせる武装集団(兵士)の数」に限界がある事から、「共和制」に敗れました。ロシア革命を成功させた「プロレタリア独裁制」も、支配層が推進した「計画経済」が成果を挙げ得なかったことから、民衆の失望を抑えきれずに瓦解しました。(中国だけは、政治哲学と経済運営を分離させることによって、辛うじて独裁体制を維持していますが、今後どうなるかは予断を許しません。)
しかし、それでは、国民による選挙が間接的にその国の全ての政策を決める「現在の民主主義」が順風満帆かといえば、必ずしもそうとは言えません。多くの政治家は、選挙で勝つ為には、選挙民の耳に快く響くことを言わねばならないことを知っていますから、「長期的に国民の平均的な幸福を保障する」などといった悠長なことを考える暇もなければ、その気もありません。
結果として、「民主主義の恩恵を謳歌している筈だった民衆自身が、後になって自らの誤った判断に歯噛みする事態が、今後ますます多くなっていくだろう」という事が、今まさに深刻に懸念されているのです。つまり、「真に人民の為になる政治は、人民の手によっては実現できない」という皮肉な現実が、露呈されつつあるという事です。
米国の大統領選挙は、これを分かり易い形で示した
トランプ大統領が、「自分を選んでくれた人々の希望を実現する為に、全力を上げるのが自分の使命である。他の人達の価値観や、西欧や北米の一部の人達が好んで口にする『綺麗事の理念』などに構っている暇はない」として、世界中の多くの人達の「将来に対する深刻な懸念」を容赦なく無視したとしても、民主主義の名の下でこれを非難する訳にはいきません。
また、民主主義のもう一つの欠陥は「多数決の原理」です。仮に今、利害関係が対立する二つのグループがあり、Aというグループが全体の60%を、Bというグループが40%をそれぞれ占めていたとします。本来なら、AとBは歩み寄って妥協点を見出すべきなのですが、現実には、政治家やジャーナリストがそれぞれのグループの対決姿勢をあおります。
その結果としてもたらされるものは、接戦を制したAが思い通りに政治を動かし、その結果が「雪だるま効果」を生んで、Aをより強くしていくという図式です。こうなると、被害者意識しかもてなくなったBは、「非合法の闘争」へと自らを駆り立てて行くしかなくなります。これによって社会は必要以上にギスギスしたものとなり、絶望した人達のテロ行為さえも誘発しかねない状態が生まれるかもしれません。
懸念材料は、勿論米国だけにある訳ではありません。現在の歴史家は、「歴史上最悪の独裁制はヒットラーとスターリンによるものだ」としていますが、彼等とて、登場した時には民衆の熱狂的な支持を受けたのです。今、この瞬間にも、世界中のどこかの国で、強国の身勝手な振る舞いに反発した民衆が、民主主義的な手順に従って、「将来恐ろしい姿に変貌していく可能性のある独裁制」を受け入れていく事は、常にあり得ることなのです。
AIだけが唯一の希望
それでは、解決策はどこに見出しうるかといえば、それは「人民の為の政治」を「人民による政治」の上位に置く事です。「リンカーンは非現実的な理想論を述べたに過ぎない」と割り切り、「好ましい目的」と「好ましい手段」が両立しうるという幻想を、躊躇なく捨て去るのです。
民主主義が避けて通れない「ポピュラリズム」、言い換えるなら「衆愚政治」の弊害は、既に古代ギリシャのプラトン等も見抜いていた事です。それ故に、プラトンは、「哲人政治」というものを標榜し、実際にその試みを構想するまでに至っていましたが、ここに求められるような「真の哲人」が、果たして現実に存在しうるかどうかについては、誰も自信が持てなかったようです。
「最初は公正無私でも、権力を持てば次第に腐敗していく」というのが、人間の持って生まれた性格である事も、当時の哲学者は見抜いていたかの様です。
しかし、AIならどうでしょうか? 自らの欲望を持たず、感情も持たないAIは、永久に、唯ひたすらに「公正無私」であり続ける事ができます。AIには賄賂も脅迫も効きません。暗殺する事もできません。全てのファクターをもれなく取り入れ、飽く事なく多くの仮説を立てて、その全てを完全に検証し、「これこそが、長期にわたって最大多数の最大幸福を実現する道である」と宣言するAIに対して、不完全な人間はどんな反論をする事ができるでしょうか?
勿論、早い時点では、AIが全てを自律的に行うというわけではなく、人間(一握りの政策集団)が、AIの能力を駆使して、この方向へと政治を誘導すればよいでしょう。そして、最終的な決定は、直接的、或いは間接的に、民主主義の手順に従って、国民が直接行うのがよいでしょう。
しかし、こうして、次第に多くの人達が、「AIは公正無私である上に、抜群の政策起案能力をもっている」と認識し、これに全幅の信頼を置くようになった時点では、AIは人間の手を完全に離れ、「全ての政治を自らの手で自律的に行う」という最終的なフェーズへと移行するべきだと思います。
何故なら、人間が少しでも関与していれば、いつどこで、一握りの人間が何等かの感情に突き上げられて、取り返しのつかない失敗を犯さないとも限らないからです。
この辺りの詳しいメカニズムについては、是非私の本をご参照ください。
なお、次回は、現在の世界が直面している「資本主義への疑念」について語り、AIが現在の資本主義体制を如何にして変革していけるかを議論したいと思います。