体罰は記録映像を義務付けてはどうだろうか? --- 林 けんいち

ジャズトランペット奏者の日野皓正さんがコンサート中にドラムを演奏していた男子中学生に体罰を加えた映像が報道され、テレビやネットなどメディアでは改めて体罰の是非が論じられています。

個人としては体罰は原則禁止されるべきと考えてはいるが、容認主義者の意見にもわからないわけではない。「規律の維持のために言葉で従わない場合、体罰で従わせる以外に手段がない」「信頼関係のある愛のムチも存在する」など、個別のケースを見れば、確かにそうなのかもしれないというケースもあるのでしょう。

日野皓正さんのケースも意見は賛否両論別れてはいるが、今回のケースが映像として記録に残され世間の評価にさらされたことは救いである。

中学生の父親も今回は自分の息子の非を認め日野氏の体罰を容認するコメントを発しているが、これがもしどのような様子で行われた体罰かを自分の目で確かめる機会のないまま、自分の息子が体罰を受けたと報告を受けてもどう判断すればよいかわからなかっただろう。

この報道をみて考えたのだが、今後教育者の体罰には記録映像を義務付けてはどうだろうか?

もちろん記録すれば容認されるという訳ではないが現状の体罰原則禁止のルールの中でも、実際は表沙汰にならずに行われている体罰は相当数に存在すると思われる。

その中には一定の理解を示せる余地のあるケースや、どう見てもただの暴力であるケースも色々あるだろう。それらが多くの人に批評される事もなく体罰禁止の建前の中で隠れて行われている事が最も危険な状況ではないだろうか。

体罰を撮影する準備の時間が取れずに即座に体罰を実行する必要のある状況というのもほとんど想定が出来ない。暴れたりする子供を止めるのに、動きを拘束したりその場から排除させるために大人の力を使うことはあっても、反省を促すために手を上げる体罰は、撮影準備後でも問題はない。

体罰の容認派の意見も教育者の冷静な判断のもと行われている事が大前提なのは言うまでもないだろう。記録映像が義務化されているのに咄嗟に手を上げてしまった、なんて感情だけで動く教育者を教育者のままにしておく必要など全くない。少なくとも記録せずに行われた体罰は無条件で刑事罰の暴行罪や傷害罪として裁くべきだ。

体罰容認の考えを持つ教育者は、堂々と記録し教育委員会や保護者会に提出する前提で自らの教育理念を貫けばいいではないか。

問題にならなければ保護者や教育委員会などに報告することもなく、問題になった時だけ体罰容認の意見で言い訳しながら一応は謝罪して丸く収める。こんなものは教育者でもなんでもなく、それこそただの子供だ。

「原則禁止のルールの中でも、このケースはどうしても体罰が必要だ、手を上げるしか手段がない」というその判断が本当に絶対の自信を持てるものであるのなら、周りの大人たちの理解も得られるはずである。是非、自信を持って記録し、世間の批評にさらされて頂きたい。

フリーライター 林けんいち(ブログ:非常識バイアス