著者アトキンソンは元ゴールドマン・サックスのアナリストだが、日本で仕事をしているうちに京都の美しさにひかれ、ストレスの多い投資銀行をやめて、文化財を修理する会社の社長になったらしい。本書の前半は、彼がかかわった不良債権処理の話だ。
90年代前半、すでに日本の建設・不動産業界はほぼ半分が倒産状態で、資本金の数百倍の債務を抱える業者も珍しくなかったが、不動産取引は手形ではないので形式的には存続していた。これを銀行が「破綻懸念先」といった形でごまかして延命していた。
1995年にNHKの番組に出てもらったとき、アトキンソンは「建設・不動産業界の債務を一括して免除しろ」という徳政令を主張した。これに対して銀行業界は猛反発し、そのとき出演していた大蔵省の長野証券局長も「特定の債務者だけ債務免除することはできない」と否定した。
当時は(私を含めて)マスコミも「バブルで儲けた銀行を救済するのはおかしい。ましてバブルを作り出した不動産業者を救済するなんてとんでもない」ということで一致していた。経済学者にも、決済機能には外部性があるので預金者を救済することは仕方ないが、銀行は破綻処理すべきだという筋論が多かった。
もちろん資本主義の原則からすると、リスクを取った企業が失敗の責任も取るのが当然だが、それを実行すると、金融危機のときは債権者の銀行まで破綻し、取り付けによって社会全体にパニックが拡大する。銀行はそれを恐れて債務者を生かさず殺さずの状態に置くので、不良債権の全容がわからないまま地価が下落し、損失がふくらむ。
今ふりかえってみると、あのとき徳政令を出しておけば、銀行の損害はネットで20兆円ぐらいですんでいた。それを2000年代まで引っ張ったため、損害は100兆円にふくらんだ。不動産業者は結局、破綻処理で債務が免除され、銀行の損害46兆円を公的資金で埋めた。結果的には銀行融資が返ってこないのは同じで、損失が5倍になり、納税者がその半分を埋めたのだ。
破綻処理というのは約束を破るメカニズムなので、何らかの形の徳政令(債務免除)は不可欠だ。そのとき大事なのは責任追及ではなく、損害の総額を減らすことだ。そのために損害を早く確定して負担の配分を決めることが破綻処理のポイントで、かつてのメインバンクは、そういうresidual claimantの機能を果たしていた。それが債務が大きすぎて機能しなくなったことが、不良債権問題の根本原因である。
同じことは、実質的に破綻している日本の財政にもいえる。日銀は史上最高値で国債を200兆円以上も買っているので、金利が2%上がると30兆円以上の評価損を抱える。金融村(銀行・生保・日本郵政)は600兆円近くもっているので、合計で100兆円近い損が出る。70年代のイギリスのように長期金利が15%を超えると、財政は破綻して邦銀は全滅する。
この含み損の表面化を避けるために、イギリスのように30年かけて金融抑圧をやると、経済全体がボロボロになり、将来世代の損害が拡大する。それより早い時期に、政府と金融村で「国債の一部債権カット」を決めたほうが損害の総額は小さくてすむ。
これはEUでも結局とられた方法だが、最大の損害は、その(不可避の)結果にたどりつくまでの各国のグダグダの交渉の過程で発生する。したがって今のうちに、新発国債には「金利が1%上がったら返済は1割カット」などという「徳政令条項」を入れておくのがいいのではないか。