バレンタインデーの歴史を振り返ると?

婚姻を禁止され嘆いていた兵士たちのために婚姻の儀を行ったため、ローマ皇帝の命で処刑された聖バレンティヌスの命日である2月14日は、世界各地でカップルが愛を誓いあうバレンタインデーになったと言われています。

日本では、当初、「女性が男性に対して愛を告白することを許される唯一の日」と定義づけられ、告白アイテムとしてチョコレートが用いられました。

昔の日本では、女性から男性に愛を告白するのは恥ずべきこととされていたのでしょう。

すべてはお菓子メーカーの陰謀だという説も根強いのですが(笑)

私が中高生だった1970年代には、(少なくとも私が住んでいた地方では)バレンタインデーはドキドキハラハラの日でした。

恩恵に預かれた男性は、せいぜいクラスに1人いるかいないかだったと記憶しています。

私自身、中学2年生の時「あなたをいつも見つめている女の子がいたら、きっと私でしょう」という意味深な手紙を添えられて友人経由で(なぜか)シャープペンシルを渡され、ひどく狼狽した記憶があります。

中高を通して残念ながら本命の女の子からもらえるという喜びはありませんでしたが、周囲を見ても期待はずれの男子同級生が大半でした。

これが1980年代以降になると、「これでもか!」というくらいチョコレートが飛び交う時代になりました。

長銀高松支店で隣に座っていた先輩は、(前の任地である)本店の某部署の女の子たちに催促の電話を架けまくり、行内便で机に山盛りのチョコが届きました。

義理チョコ全盛の時代が始まったのです。

野村投信在籍中は、部長から平社員まで、同じチョコが「部の女子全員から」ということで配られました。

全員同じという、まさに”義理”チョコが頂点に達しました。

それから、延々と義理チョコとホワイトデーの義理返しの時代が続きました。

小4の冬休みに上京した娘の塾の他のクラスメートが全員男子だったので、「しめた!」と思った私は伊勢丹でチョコを大量に仕入れてきて、渋る娘にクラスメートと男性講師分のチョコを持っていかせました。

私は、娘を箱入り娘に育てるつもりは全くなく、たくさんの男性と付き合ってほしいと思っているので、後押しに力を惜しむことはありませんでした。現在に至ってもそうです。

娘が女子中高に入ると、すさまじい光景が繰り広げられました。

バレンタインデーに向けて様々なお菓子作りが家のキッチンで行われ、デパートの紙袋一杯のお菓子を学校に持って行っては同量(もしくはそれ以上の)お菓子を持ち帰ってきたのです。

女子校内での手作りお菓子の大交換会です。同性間のお菓子の交換や男性から女性への贈り物も当たり前になったのが(体感的には)2010年前後でした。

昨今は、義理チョコを止めようという動きが出ているようですが、私はこれに大賛成です。

長銀時代に先輩の机に山盛りされたチョコの数々や、娘が学校から持ち帰った溢れんばかりの手作りお菓子を見ると、食べきれないこと間違いなしです。

折しも食品の大量廃棄が問題視されている昨今、“選択と集中”によるかつてのドキドキハラハラ感の復活が望ましいと私は考えています。

お菓子メーカーの方々にとっては営業妨害でしょうが😅


編集部より:このブログは弁護士、荘司雅彦氏のブログ「荘司雅彦の最終弁論」2018年2月13日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は荘司氏のブログをご覧ください。