裁判員の辞退者が7割に増加していると報じられた。
アメリカかぶれの愚かな面々が、司法改革の一環として発足させた裁判員制度も、(法科大学院制度同様)制度としての存在意義が問われている。
司法への国民参加云々を説くのであれば、まず裁判をネットやテレビで中継すべきだろう。裁判は「公開」が原則なのだから。もしかしたら、本格的に中継されるとお粗末な裁判風景に国民が幻滅して、司法の威厳がなくなってしまうことを危惧しているのだろうか?
ともあれ、裁判員制度は廃止もしくは縮小すべきだ。
現在、被告人が自白し、当事者に意義がない刑事事件でも裁判員が付されている。
直近のデータだと裁判員裁判の約35%が否認事件なので、65%くらいは自白で意義のない事件ということになる。
「自白事件」だからえん罪の可能性がないとは言わないが、えん罪の可能性があるのなら弁護人が意義を唱えるはずだ。弁護人も意義を唱えず、いわゆる情状酌量のみを求める刑事事件に、わざわざ多忙な一般市民を巻き込むこともないだろうし、煩雑な事務手続をとる必要もない。
自白事件で当事者に意義のない刑事事件は、被告人の情状酌量を求めるに過ぎず、一種の儀式と言っても過言ではない。求刑の2割引くらいの刑が宣告され、被告人が法廷で涙を流して反省を訴えると、裁判官によってはもう少し割り引いてくれたりする。
私自身国選弁護で自白事件を山のように経験したが、裁判官によっては公判当日に刑を宣告する人もいた。時間節約が目的とのことだった。自白事件を多数経験すると、公判廷がまさに一種の儀式に過ぎないことをしみじみと感じる。
最大の苦労は、(刑務所と世間を頻繁に行き来している)弁護のしようのない被告人らの汲むべき事情を、何とか見つけなければならないことだった。
そのためには、接見の機会に被告人と真剣に向き合って、被告人の「いい面」を一つでもたくさん探し出す熱意が必要だ。
せめて、このような自白かつ当事者に意義がない事件からは、裁判員を解放すべきだと私は考えている。
司法への国民参加であれば、法廷のテレビやネット中継の方が遙かに効果が高い。
雰囲気を味わいたいのであれば、傍聴席で十分だろう。
裁判員制度で何が変わったのだろうか?
裁判所、検察官、弁護人の負担が増加し(とりわけ裁判所の職員の負担は極めて大きい)、裁判員に選任された人たちの負担が増加しただけのように思えるのは私だけだろうか?
法科大学院制度同様、司法改革の大失敗だったと素直に認めて反省すべきだと考える。
編集部より:このブログは弁護士、荘司雅彦氏のブログ「荘司雅彦の最終弁論」2018年5月24日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は荘司氏のブログをご覧ください。