▲1億総活躍国民会議で「同一労働同一賃金」の方針を示した安倍総理(首相官邸サイトより)
またもキャッチフレーズ先行
安倍首相の悪いクセは、キャッチフレーズになりそうな計画、構想に急に飛びつき、実現可能性は後回しにすることです。メディアは半信半疑であっても、首相案件ですから大きな扱いをします。実現が怪しくなってくるころには、別の構想にすりかえるという手をよく使いますね。
首相は1月の施政方針演説で「同一労働同一賃金制度」の実現を明らかにしました。社会的格差の代表例が正規社員と非正規社員(契約、パート社員)の賃金格差ですから、実現すればすごいことです。「自民党も思い切ったことをやる。でも本当にできるのだろうか」と、有権者は受け取っているはずです。人事、労務の専門家がすでに多くの問題点を指摘しています。私が触れたいのは首相の政治手法です。
報道に接していると、やはり実現には多くの壁があり、「なんだ例外だらけになりそうだ。同一になるのは小さな分野だけ」ということになってきました。もともとは同一労働同一賃金制は民主党の構想であり、民主党はお株を奪われて、与党の選挙対策に使われようとしているのです。民主、維新両党の合流にもぶつけようとしたのでしょう。政治的思惑が先行しましたね。
出向者の賃金はどうするのか
賃金格差の是正には、障害がいくつもあります。大企業は多くの子会社を傘下に持ち、親会社から社長、経営幹部、管理職が大勢、出向しています。人件費を安上がりにできる子会社をたくさん持つことが経営合理化のポイントでした。出向社員の賃金格差は、親会社が実質的に穴埋めしてきました。補填をなくせば同一賃金となります。それでは出向者の賃金カットになりますから、無理です。子会社プロパーの社員の賃上げで対応しようとしたら、分社化のメリットを失います。
また、同じ社内における正社員と非正規社員の賃金格差はどうするのか。「何をもって同一労働と定義するのか」、「正規社員の年功制度は非正規社員にはない」、「非正規社員に退職金制度がない」。次々に経営の根幹、日本型賃金制度に関わる問題点が噴出し、容易に同一賃金を実現できない、ということでしょう。
こうした課題は通常、専門家の意見、担当官庁の検討を経て計画、構想がまとめられ、首相がゴーサインを出すのが普通です。安倍首相の手法はその逆で、自分が先ず風呂敷を広げ、専門家の検討に回します。自分が「指示した」という形をよほど取りたいのでしょう。「指導力がある首相」と印象づけたいのです。新聞の見出しでしばしば「首相が指示」という表現にお目にかかります。メディアも首相の宣伝部門ではないのですから、こんな見出しはご免ですね。
なにかと「指示」が好きな首相
首相お気に入りの「1億総活躍社会」計画も突如、首相からの「指示」から始まりました。大急ぎでそのための国民会議が開かれ始めました。事前の段取りはなかったはずです。「GDP600兆円(2020年)」計画も、「なんとか実現できるだろう」程度の見通しで、アドバルーンに使ったのでしょう。景気回復はひ弱で、600兆円は怪しくなっております。
時間が経つにつれ、つじつまが合わなくなってくることの繰り返しです。昨年の実質賃金は前年比1%減となりました。日銀のマイナス金利導入で、銀行のベア見送り表明が相次いでいます。円安から一転、円高への転換で企業収益が急減速しています。同一賃金のためには、正社員の賃金は下げず、非正規社員の賃金を上げる方法を取らざるを得ません。首相の音頭とりをめぐる経済環境は厳しいですね。
首相が同一賃金に飛びついたのは、格差問題が世界的な広がりを見せているからでしょう。首相は「日本では、まず同一賃金の実現から」という思いだと思います。それは大切なことです。問題は格差には、企業内格差(正規社員と非正規社員)、企業間格差(大企業と中小企業)、地域格差(東京と地方)、階層格差(富裕層と低所得層)、国家間格差(先進国と新興国)など様々であることです。裾野が広く、息の長い取り組みが必要です。
国際経済の法則が賃金下落を生む
国際経済の理論に「要素価格均等化定理」というのがあります。要素価格とは賃金などのことで、国際貿易が自由化され、低賃金国から低価格の製品が輸入されることを通じて、高賃金国(先進国)の賃金が下落し、均等化していく(等しくなる)というものです。ですから日本の経済界は低賃金の非正規社員を増やしてきたのです。同一賃金はそれに対する逆流を意味します。
欧州では同一賃金が基本で、フランスでは、非正規社員の賃金(一時間当たり)は正規社員の89%、それに比べ日本は57%と低いのだそうです。「欧州は進んでいる」と、思ってはいけません。欧州には大量の移民労働者がおり、社会的格差がひどく、イスラム・テロの背景になっています。首相の同一賃金論が幅広い問題を掘り起こしていくことを願っております。
中村 仁
読売新聞で長く経済記者として、財務省、経産省、日銀などを担当、ワシントン特派員も経験。その後、中央公論新社、読売新聞大阪本社の社長を歴任した。2013年の退職を契機にブログ活動を開始、経済、政治、社会問題に対する考え方を、メディア論を交えて発言する。
編集部より:このブログは「新聞記者OBが書くニュース物語 中村仁のブログ」2016年2月25日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、中村氏のブログをご覧ください。