良心的外交官の甘さ

井本 省吾

約10年前の2006年7月に発刊された「大地の咆哮」(PHP)という中国観察記と対中外交論がある。著者の杉本信行氏は、いわゆる「チャイナスクール」の外交官だ。

杉本氏は2006年、末期癌で57歳で病死。本書はその覚悟のもとに書かれている。それだけに中国の反応を気にせずに書かれた内容は率直で、チャイナスクールとは思えないほど相手の問題点についての洞察は深い。幹部の汚職と腐敗、深刻な水不足問題、搾取される農民、反日運動の背景、靖国神社参拝問題の政治的背景、格差拡大など、深刻な問題の真実をえぐっている。

私は史実を捏造、歪曲し、世界に宣伝する中国や韓国に対抗するために外務省が全力を上げて取り組むべきだと、当ブログで繰り返し提唱してきた。それをやらずに沈黙を通してきた外交官を無為無策、面倒な仕事をやりたがらず怠慢だと厳しく批判してきた。

だが、実際には一生懸命やっているまじめな外交官も少なくない。杉本氏はそうした良心的外交官の典型だろう。氏は日本のODAが十分に生かされるよう、日本のODAを活用した地方の農村で小学校建設などに注力してきた。それが長期的に日中友好に役立つと信じてのことだ。

ここにこそ良心的外交官の限界がある。杉本氏は中国の腐敗、汚職、非民主的な地方での経済運営と、それによる人民の貧しさ、苦闘を見聞きし、肌身で感じている。一党独裁のこの国で、格差拡大、腐敗・汚職を廃絶することなど容易ではないこともわかっている。

中国政府の幹部が国のためでなく、私利私欲、自己保身のために備えていることを、杉本氏は良く知っている。

<(幹部の)子弟たちの多くは海外留学に出ているが、将来、中国人民共和国のために働くというより、共産党の支配体制が崩れた場合に備えているといったほうが正しいのではないだろうか。海外留学生たちの多くが中国に帰らず、そのまま留学先にとどまり、そこでの永住権を得る例が多いことがそれを物語っているともいえる>

これだけ、実態を正確に把握しながら、杉本氏は中国と距離を置こうとしない。

<中国は日本にとって、時としてやっかいな隣国である。しかし、だからといって日本は引っ越すわけにはいかない。中国が日本にとって好ましい存在になるように全力を尽くすのが外交の要諦だと考える。少なくとも中国の失敗のつけが日本に回ってこないよう賢明に立ち回ることが大事だ>

日中友好第一なのである。この考え方こそが、日本の外務省の間違いであり、日本の国益を害してきたといえる。

杉本氏の元同僚で、元外交官の岡本行夫氏は本書を激賞する解説を寄せている。その最後の方にこんなエピソードがある。

二年前、病気が発覚する直前に、杉本氏と共に、彼が研修した瀋陽の遼寧大学を尋ねた。暮れなずむ大学のグラウンドを見ながら、彼は「日中は必ず理解しあえます」と静かに、しかも自信をもって断言した

なんとも甘い! 杉本氏も、美しい描写で杉本氏を評価する岡本氏もそうい言わざるをえない。

「人間同士には友情があるが、国家間には友情はない。あるのは共通の利益だけだ」。こう言ったのは2013年2月から2014昨年11月までオバマ政権の国防長官を努めたチャック・ヘーゲル氏である。

また、「スピーク・ソフトリィ ウィズ ビッグ スティック(棍棒片手に優しく語りかける微笑外交)」が外交の要諦なのだ、とも昔から言われる。

こうした冷徹な認識こそ欧米での国家関係、外交の常識なのだ。

ところが、日本外交は友好第一。対象国と溝が生じるのはいけない、と考えてしまう。だから、相手に舐められるのだ。「日本は第2次大戦で謝罪していない」『賠償も不十分だ」などと言われると、多額のODAを出したり、支援金を支払う。

中国には過去数十年で何兆円ものカネをばら撒いてきた。国富の流出である。だが、外務省はそれが良かれと思っている。支払うのは国民の税金であり、自分のカネでないから平気なのだ。

「良心的外交官」ながら、彼らは国富をドブに棄ていているようなものである。日中国交正常化以来、何兆円も中国に振り向けながら、対中関係は少しも良くならないどころか、軍事的緊張が高まっている。日本の巨額の援助金が日本を圧迫する中国の軍事費に化けている事を彼らはわかっていない。

友好第一に弱い日本の外交を見抜いて「友好」を殺し文句に、日本をさんざん利用してきたのが中国だろう。「日中友好」という錦の御旗を掲げれば、日本は譲歩し、中国の主張を飲むと思って政略、戦略として活用してきた。

「歴史を鑑に」「歴史を直視せよ」というのも、日本が「過去の侵略、犯罪」に弱いと思っているからだ。何度でも使えると思っている古証文。韓国が「慰安婦問題」を繰り返し持ち出すのも同じである。

「日本の犯罪」を口にすれば、いくらでもカネを出すことを知っているのだ。日本がそれに援助金で答えても少しも感謝しない。「日中は必ず理解しあえます」などと、青臭いことを良く言えたものだ。

2004年春、上海総領事館員が中国公安部より強迫され、「このままでは国を売らない限り出国できなくなる」との遺書を残し、自殺に追い込まれる事件があったが、その際の上司で上海総領事が杉本氏だ。厳しく言うようだが、そうした中国の酷薄な手口を十分に理解しているとは思えないのだ。

「近隣国家で、お互い引越しできない。だから仲良く」も良く言われる事だが、「だからどうした」と言いたい。近隣国家だろうと、淡々と付き合うことはできる。相手が武器を出して来ることに備えて「棍棒片手」で臨みながら、それでいて常に「やさしく語りかける微笑外交」が平和維持のために大事なのだ。それが大人の常識なのである。

日本の外交官には、この自覚が乏しいのである。