橋下徹氏に見る憲法学通説の病理~その3:内在的限界編~

篠田 英朗

橋下徹氏のウクライナ情勢をめぐる発言が、次々と物議を醸しだした。ウクライナは降伏せよ!NATOは「妥結」を達成せよ!ウクライナ人は津波から逃げるようにジェノサイドから逃亡せよ!と無理筋の指示を次々と出し続ける。そのあげく、やみくもに他者を罵倒し始める。

ゼレンスキー大統領FBより(編集部)

発言が変転し続けて一貫性がないだけではない。過去の発言の責任を引き受けようとする姿勢を全く見せない。「降伏」論はどうなったのか?軍事同盟であるNATOがいきなり政治交渉を始めて成立させる「妥結」とはつまり何なのか?どうやったら一般のウクライナの住民が暴虐な外国占領軍の虐殺行為から逃れることができるというのか?全くわからない。

橋下徹氏は、なぜこのように振る舞うのか。その理由を、前回は、橋下氏の思想傾向の面から考えてみた。そして「ケーキを切る人になる」という本来は方法論でしかない話が、自己目的化しているのではないか、という示唆を行った。この手段の目的化がはらむ内在的限界が、橋下氏の一貫性のない態度の根源的な要因だろう。

端的に言えば、橋下氏に一貫性がないのは、原則がないからである。国内行政では、まだ憲法に従うという原則があったのかもしれない。しかし、国際問題については、無原則になる。国際社会に憲法がないからだ。

憲法学通説を信奉する者に特徴的な思想傾向である。

橋下氏であっても、日本社会における犯罪被害者に、殺人者に降伏しろ!殺人者と「妥結」をしろ!津波から逃げるように殺人者から逃亡しろ!といった主張をしてきたわけではないだろう。それなのに、橋下氏は、ウクライナ人には、これらを要求する。なぜか。橋下氏が、国際秩序の存在を信じていないからだ。

なぜ橋下氏のような憲法を信奉する方に限って、国際秩序を軽視するのか。

伝統的な日本の憲法学では、憲法は権力を縛るためにある、と理解されている。立憲主義とは、権力を制限することである、と理解されている。行政府の首長を務めたことのある橋下氏は、権力を憲法に従って行使することも立憲主義の一部だ、とは付け加える。しかしいずれにせよ、憲法とは、国家と市民との間の「関係」の事柄だ、というのが、伝統的な日本の憲法学の考え方である。

この国家と市民の二元的な「関係」の図式を国際社会にあてはめることはできない。そこで伝統的な日本の憲法学通説の発想方法からは、国際社会では立憲主義や法の支配は不可能だ、という結論しか出てこない。そのとき橋下氏に残るのは、「ケーキを切る人」のむき出しの「妥結」の要求だけである。

原則なき「妥結」を求めるから、即時の結果だけを求める。時間をかけた戦略的・戦術的な行動を通じて進展させる交渉術などが検討される余地などは全くない。一か月後の戦況の動きの可能性をにらんで体系的かつ段階的な交渉の進展を目指す、という発想は、皆無である。ただただ、その場限りの「妥結せよ」を繰り返すだけだ。そのため、状況の変化に応じて自分の言っていることのほうも一貫性なく変更させる。体系なき日替わり「妥結」要求の羅列である。

原則なき「妥結」を求めるから、ウクライナは降伏せよ、NATOがケーキを切れ、ウクライナ人はジェノサイドからきちんと逃げろ、といった類のことをツィートし続ける。しかも、痛すぎることに、その連続ツィートを、「理屈」とか「議論」とかと呼んでしまう。もし自らの支離滅裂な内容を批判されるとすれば、そのときに用いることができる武器は、権威主義だけである。「俺は元権力者だ、権力を知っているのは俺だ」、といったことをやみくもにツィートし続けるだけである。

このようなパフォーマンスに、論理的な交渉術などはない。あるのはただ、ウクライナは降伏せよ、NATOが妥結を持ってこい、ウクライナ人はジェノサイドからちゃんと逃げろ、といった、実現可能性がなく、したがって誰も従うことのない空しい命令だけである。

日本の憲法学通説は、権力関係のことばかりにこだわり、権力関係について命令を下すことだけを立憲主義と呼ぶ誤謬を犯している。

立憲主義(constitutionalism)とは、本来の意味であれば、立憲的=構成的(constitutional)であろうとする主義である。社会を「構成している原則」の存在を信じ、その原則に忠実であろうとする態度のことである。

おそらく橋下氏のような日本の憲法学通説の徒は認めないだろうが、この意味での立憲主義(constitutionalism)は、国内社会でも、国際社会でも、見出すことができる。国際社会にも、侵略者や虐殺者を違法とする社会構成原則がある。法の支配(rule of law)とは、そのような社会構成原則を遵守する「constitutionalism」としての立憲主義のことである。

ウクライナで起こっている戦争は、国際的な法の支配の重要性を信じて守ろうとする人々と、それを否定して破壊しようとする橋下氏やプーチンのような人々との間の戦いである。