先日のエントリーでは炎上事件を素材にして、過剰な要求が情報をねじ曲げ、意図しない方向に議論を展開させることを指摘したが、これは本稿で「正しさ」をテーマにして論じるための長い前書きでもある。
「正しさ」とは何だろうか。作家・高橋源一郎氏が「午前0時の小説ラジオ」で語っていた「正しさ」をもとに定義しよう。高橋氏はまず、政治哲学者ハンナ・アーレントの人間的な叡知と倫理を失わない者だけが「正しい」とする考え方を取り上げ、こう言っている。
彼女の理想とする世界で生きられる住人は、いったいどのくらいいるのだろう。彼女が厳しく責める「悪」の反対側にしか「善」がないとしたら、その「善」の世界は、あまりにも息苦しいのではないか。ぼくは、そう感じたのだ。
そして、「悪」を徹底的に閉め出す厳格な「善」のあり方を指摘した上で、悪に「寛容な」親鸞の思想に触れている。
親鸞は、アーレントとは逆に、「悪」と「善」の距離を縮めた。もちろん、親鸞は「悪い」ことをしていいといったのではない。そのようにせざるをえない人間という生きものの運命を、深く知るべきだといったのである。少しだけ「悪く」、少しだけ「善い」、そういう生きものなのだと。
筆者も以前「悪人正機」について触れたが、親鸞の思想は現代における善悪へのアプローチを根底から覆す「警句」として捉えることができる。つまり、ある対象に「悪」のレッテルを貼り、ほとんど盲目的に自らの「善」や「正しさ」を追求するようなことは、まったくもってナンセンスなのだ。
現実は善人か悪人かと二元論で語れることばかりではないし、そのような場面では一人の“凡夫”として発言すべきであるが、それにもかかわらず「善」が「悪」に「正しさ」を要求するようなことが行われている。
あまりにも抽象的で観念的な話だろうか。そもそも「正しさ」の定義になっていないと思われるかもしれない。であれば、“凡夫”としての行いの例を挙げよう。それが、先日取り上げた津田大介氏のジャーナリズムだ。
津田氏の女川町廃棄物選別処理施設の取材はごく普通で特筆すべきことはない、そもそもリスクマネージメントを強いるのはおかしい、中立的な立ち位置でいい子ぶるのではなく自らの主張を明確にする方が信用されるなどといった意見が寄せられた。一つひとつはその通りだと思う。しかし、残念ながら「今はそうせざるをえない」と考えるべきだろう。
ある人が、別の人の信じる善、正しさを否定しうる言動を取れば無益な議論が生まれ、場合によっては炎上する。そして、今度は炎上させた人たちがまた別の人たちに間違っている、悪だと非難される。「架空の敵」を見立てて攻撃することで、自らを「敵」に仕立て上げてしまうパラドックスが簡単に出来上がってしまうのだ。
では、どのような行動を心がけるべきか。それは、「正しさ」を語らず、「善」を要求せず、客観的事実を見せること、何かを否定しない形で誠実に議論を展開することだろう。
普通過ぎる、わざわざ言うほどのことかと呆れるかもしれない。勘のいい方はもうお分かりだと思うが、つまりこれは「正しさは決められない」という話なのである。
震災瓦礫受け入れ問題でいえば、「ヒステリックに受け入れを拒否する人たちは助け合う気持ちが皆無」という意見と、「絆という言葉をはき違えてリスクを拡散させる無責任な行為」という意見がある。
そして、これは互いに「悪」の閉め出しを行っていることを意味する。「正しさ」の主張は、もう一方を否定することに他ならない。少しだけ悪く(間違っている)、少しだけ善い(正しい)という立場が欠落している限りは、Aが善であるときBは悪で、Bが善であるときAは悪であるという構図から抜け出せないのだ。
最後に、今一度高橋氏の言葉を引用したいと思う。
「正しく」なければ「間違っている」のか? そんなことはない。「どちらが正しい」か決めなければならないのか? その間にこそいくつもの回答が眠っているのではないだろうか。ぼくたちの間を分断しようとするもの、それがどのようなものであれ、それが「正しい」とは思えないのだ。
高橋氏は、「正しさ」について語りながらも、それを決めるべきではないと言っている。自らの正しさは自らが決めることではない。当然ながら、自分が正しいからそれ以外は正しくないと断罪することもできない。
その意味では、実のところ「放射脳」も「御用学者」も「金の亡者」も「デマ野郎」も全部同じ「分断しようとするもの」である。自らを正しいと信じる者同士が、互いに「正しさ」を要求し合うがゆえの呪いの言葉だ。ここにおいては、どちらも「正しく」ない。
すでに、この問題はどちらかがどちらかをノイジーなマイノリティとジャッジできる段階にはない。それどころか、正しさを要求すればするほど絆という言葉は空しく響き、溝は深まる一方である。そろそろ、「正しさ」については沈黙しなければならないのではないだろうか。
もちろん、沈黙するだけでは何も生み出さないことも、悠長なことを言っている場合ではないのは自覚している。何を言ったところで完全なる客観性や公正さは保たれることはなく、ひとつの意見に過ぎないことも。
ただ、被災地で懸命に復興支援をしているわけでもなく、こうして文章を書くこと以外はほとんど何もできないような人間には、疑問を投げかけることしかできないのである。これを読んでくれる方がほんの一握りでも、少しでもポジティブな変化を与えられるのならば、書かなければならないと思うのだ。
震災から丸一年が経とうとしている。今求められているのは「正しさ」ではなく、想像力を働かせることではないだろうか。その上で各人ができることを、できる限りやるしかない。たとえそれが当たり前で平凡なことでも、誰かが誰かにそれ以上のことを要求してはならないのである。
青木 勇気
@totti81