東洋経済オンラインに「思い通りにならない時に人は試される」として、養老孟司さんの次の言が載っています――世の中には思い通りにならないことがあることを知る。それが寛容の始まりです。自分も変わっているし、相手も変わっている。変だと思ったら、それは自分が変なのか、相手が変なのか、どちらかです。だけどいまの人たちは「相手が変だ」というほうが多い気がします。自分は変わらないと思っているからです。それを「不寛容」と言います。「何かおかしい。変なのは俺じゃない、こいつだ」となって、相手を排除しようとする。不寛容の極みです。
養老さんは又続けられて曰く、「もしかしたら、変なのは自分かもしれない。それを忘れて、自分のモノサシを固定化した瞬間、人は不寛容になります。寛容になるためには、思い通りにいかないことを受け入れたうえで、少しずつ状況を変えていくしかありません。それには自分だって変わらなきゃいけない」ということです。上記に関し私見を申し上げるとすれば、そもそも人間というのは自分の固定観念で変か否かと一々考えて、「変わり者」云云と評すること自体が不要であると思います。
人間には夫々個性があり皆違った顔で生まれてきているように、ものの考え方あるいは感性等等その全てが異なっていて然るべきでしょう。多様性を大前提としていれば、「世間には色々な考えがあるんだなぁ」「自分と違って当たり前」で仕舞となり、余りぐちゃぐちゃ難しく考えるような話でもないと思います。ある意味全てを受け入れるべしと迄は言いませんが、少なくとも相手が変か否かと一々自分の価値基準を押し付ける必要はありません。
某新聞社の先月の「ルポ迫真」に、「異形の企業集団SBI」とありました。世のため人のため必死になって「自己否定」「自己変革」「自己進化」のプロセスを続け一生懸命チャレンジし、成長に突き進んでいる我々に対し何を以て異形とするのでしょうか。此のタイトルを付された方に是非とも伺ってみたいものであります。「日本の常識は世界の非常識」――あらゆる事柄において日本人は世界の常識をもっと踏まえなければなりません。
例えばイラクがクウェートへ侵攻した1990年8月、私は英国ワッサースタイン・ペレラ社で常務取締役としてM&Aを学んでいましたが、当該事象が起こる前を考えてみるに、日本の全報道機関および日本政府までもが戦争勃発の可能性について否定的見解を述べていました。ところが同時期の欧米諸国の論調はそうしたものとは全く違っており、結果としてクウェート侵攻は現実に起こったのであります。そしてまた日本政府が130億ドルもの多大な資金拠出したにも拘らず、クウェート政府の公式感謝表明の中に我国の貢献に対する御礼など一言も述べられていなかったのです。これ正に、日本という国が島国で且つ長期に亘り鎖国政策を採っていた為か、世界の常識・非常識が十分理解できない国民になってしまった所以でしょう。
その後30年に亘っても世界の非常識が貫かれたが故、30年間賃金が上がらないというような悲劇も齎されました。そして今尚、進化し成長して行かない企業集団が「正常」であるとするならば、これから我国は更に貧しい国になって行かざるを得ないと、危惧の念を抱きます。日本人の特徴の一つと思われるのは、「周りが○○だから」「あの人も○○だから」といった強い横並び意識です。個性なき日本をつくり出す社会のあらゆるシステムは転換されるべきで、全てに多様性ある社会の実現を目指し不断に変革し続けねばなりません。私は、多様性追求の中で様々な創造が齎されると信じています。
編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2024年5月31日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。