日本の原理主義と衰退する宗教政治

先鋭化する社会

結論を先に言うと、日本共産党と社民党と公明党は同じ政党である。

いや、正確に言うと同類の政党である。

3党ともに信者に支えられていて、その点、何も相違点はない。これは多くの有権者が同意してくれるだろうと思う。

田村智子・共産党委員長 斉藤鉄夫・公明党新代表 両党HPより

本来、宗教に支えられている政党は、革命思想を打ち出し、原理主義化し、先鋭化することで次第に別の団体との確執が起き、どちらか一方か、或いは双方、消えてなくなる。当初の共産主義革命思想や人間革命思想や社会主義革命思想はどこへやら。いつしか存立危機に屁理屈を言う始末で、自意識の高いリベラル風情同様、政治的イデオロギーはいつしか終焉することを意味している。

総括という名の拷問にしろ、対話という名の折伏にしろ、それは内部の内輪揉めに過ぎないのだが、手段が目的化することで、組織が瓦解するのは世の常だ。

そもそも、共産主義にしろ社会主義にしろ人間革命主義にしろ、一個人の内心に踏み込む民主主義を冒涜する考え方で、自然の摂理に則らない機械論的な人間の捉え方であって、本来、リベラルを自称する人はここを批判しなければいけない。ところが、日本も世界も、リベラルを自称する連中ほど、共産主義や社会主義に親和性を見出す。近代言語学の祖である生成文法のノーム・チョムスキーは、アメリカのリベラル主義に多大なる影響を与えた一人であるが、彼自身、共産主義との対立を鮮明にし、むしろ無政府主義の重要性を説いた。これが、今に繋がるリベラル思想の源流にある。

また、何度も何度も書いているが、同じくアメリカのリベラル政治のもう一つの潮流であるジョン・ロールズの提唱した『正義論』(社会契約論と社会正義)に基づくリベラリズムがある。

チョムスキーもロールズも、いずれもリベラリズムの源流を知る上で、欠くことの出来ない存在であり、政治的リベラリズムを語る上において、も同様だ。日本でリベラルの自称する人々の心象風景には、元を辿れば必ずと言って良いほど、この二人に行き着くとも言える。

共産主義革命思想だろうと、人間革命思想だろうと、社会主義革命思想だろうと、「革命」を旗印にイデオロギー化した政治思想に基づく政治活動は、日本で保守と言われている政治的立場をとる人々や政治家よりも、はるかに硬直して排他的になってゆくのは何故だろう?私は常にそれが疑問で仕方ない。

共産主義を標榜する団体や個人ほど、先鋭的で暴力的になる傾向があるように感じているのは、私だけではないだろう。

以後、

・取り残される人々

続きはnoteにて(倉沢良弦の「ニュースの裏側」)。