ナチス戦犯追跡者(通称ナチハンター)のサイモン・ヴィーゼンタール「生きている人間が死んでいった人間の恨み、憎しみを許すとか、忘れるとか、言える資格や権利はない。『忘れる』ことは、憎しみや恨みを持って亡くなった人間を冒涜する行為だ」
話は31年前に遡る。文芸春秋社が発行していた月刊誌「マルコポーロ」が1995年2月号で「ガス室は存在しない」などホロコーストを否定する西岡昌紀氏の記事を掲載したことに対し、ロサンゼルスに本部を置く米国の国際ユダヤ人権団体「サイモン・ヴィーゼンタール・センター」などから激しい批判が飛び出した。最終的には文芸春秋社は1995年4月号で謝罪し、同月刊誌を廃刊し、社長も交代するといった大不祥事となった。

当方のインタビューに答えるサイモン・ヴィーゼンタール、1995年3月、ウィ―ンのヴィーゼンタール事務所で撮影
当方は早速、ヴィーゼンタール氏に電話し、ウィーンの同氏の事務所でインタビューする約束を取った。ウィーンのドナウ川の水路の近くにヴィーゼンタール氏(1908年~2005年)の事務所があった。事務所の前には機関銃を持った警察官が警備していた。
ヴィーゼンタール氏は「ユダヤ人は杉原氏(リトアニア元領事)が第2次世界大戦中に多くのユダヤ人を救済してくれたことを、決して忘れない民族である。同時に、誹謗・中傷、迫害された事実も決して忘れることがない民族だ」と強調。そして「如何なる雑誌も広告ボイコットに生き延びることはできない。文芸春秋社は結局、外的な圧力に屈しただけだ。同社が新しい出発を誓うならば、真摯な悔い改めが必要だ」と述べた。
ヴィーゼンタール氏はナチス戦犯を法の裁きにかけることを生涯の使命としてきた。彼のモットー「正義であって復讐ではない」は、1988年に出版された回想録のタイトルになっている。当方はヴィ―ゼンタール氏にどうしても聞きたいテーマがあった。そこで彼に「戦争が終わって久しいが、なぜ今も逃亡したナチス幹部を追い続けるのか」と単刀直入に質問した。するとヴィーゼンタール氏は鋭い目をこちらに向け、「生きている人間が死んでいった人間の恨み、憎しみを許すとか、忘れるとか、言える資格や権利はない。『忘れる』ことは、憎しみや恨みを持って亡くなった人間を冒涜する行為だ」と述べた。同氏の口調に当方は圧倒された。
同氏には「ひまわり」という題名の著書がある。ナチス親衛隊(SS)の兵士で、数百人のユダヤ人を殺害した人物が死の床でユダヤ人に許しを求めたとしたら、ユダヤ人はどう応じるべきかをテーマにした著書だ。同著書は1969年にフランス語で初めて出版され、翌年ドイツ語で刊行された書簡で、2部で構成されている。ヴィーゼンタール氏の体験をもとにしたフィクションとドキュメントの中間に位置する自伝的物語だ。
一人のナチ党の親衛隊の若い兵士が死の床にいる。彼はユダヤ人が住む建物にガソリンをまいて火を放ち、殺害したと告白する。その罪悪感に苦しむ兵士はヴィーゼンタール氏の分身である語り手に許しを請う。しかし、語り手は無言でその場を立ち去って第1部は終わる。2部では語り手(ヴィーゼンタール氏)の対応が正しかったかを宗教者、哲学者、そして文学者らに意見を求めている。答えは一つではなく、多様な受け取り方があった。ウィーンのフランツ・ケーニヒ枢機卿は「その場で許しが出来れば、それはほぼ超人的な行為だ」と答え、許すことの難しさを指摘した。
ちなみに、ナチスの青年将校だったワルトハイム氏(国連元事務総長、元オーストリア大統領)の戦争犯罪関与容疑について、世界ユダヤ人協会ばかりか、世界のメディアが一斉にワルトハイム批判を展開させていた時、ヴィーゼンタール氏は「ワルトハイム氏は戦争犯罪に関与した事実はない」と発言し、世界のユダヤ人たちからも批判を受けたが、彼は自分の意見を変えなかった。
ヴィーゼンタール氏との会見が終わると、事務所内を見学した。壁には世界からヴィーゼンタール氏に贈られた多数の名誉博士号の表彰状が飾られてあった。当方が「多いですね」と感動すると、同氏は嬉しそうにしながら、「君、僕より多くの名誉博士号の称号をもらった人物がいるんだよ」というのだ。「誰ですか」と聞くと、「ヴィクトール・フランクルだよ」と語った(フランクルはホロコーストの生還者。著名な心理学者で、強制収容所での体験を綴った「夜と霧」は世界的なベストセラーだ)。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2026年10月24日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。







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