30分で書いた大晦日の記事がいまだに論議を呼んでいるようだが、話が荒っぽいのでちょっと補足。戦後70年近くたっても「自虐史観」と「皇国史観」が対立するのは困ったものだ。
東京裁判は占領統治の一環であり、敗戦国は何をされても文句はいえない。それが「勝者の裁き」だとか「事後法」だとかいうのは軍国老人の甘えである。当時は国際法上は日本と連合国はまだ交戦状態にあり、日本を無力化してふたたび連合国に宣戦しないようにすることが東京裁判の目的だった。
いまだに「パル意見書」が話題になるのも困ったものだ。安倍氏は第1次安倍内閣のときインド訪問でパルの長男を訪れたりして、意見書を「大東亜戦争」を肯定するものだと思っているようだが、これは誤解である。彼の依拠したのはガンジーの非暴力主義で、安倍氏とは対極の絶対平和主義や世界政府を望んでいたのだ。
保阪正康氏もいうように、パル意見書は東京裁判が政治ショーだという本質を理解しない空論で、裁判では問題にならなかった。パルが多数意見に反対した最大の理由は、事後的に「平和に対する罪」などという罪名をつくって裁くのは罪刑法定主義に反するという法律論だったが、まだ戦争が続いているときに中立な「正義」なんかありえない。
ただパル意見書もいうように「東半球内におけるいわゆる西洋諸国の権益は、おおむねこれらの西洋人たちが、過去において軍事的暴力を変じて商業的利潤となすことに成功したことの上に築かれたものである」。欧米諸国の植民地争奪戦がいかに狂っていたかに無自覚なまま、それをまねようとして失敗した大日本帝国を断罪するのも欺瞞である。
この点では、いまだに「侵略戦争」を断罪して慰安婦デマを繰り返す朝日新聞などの「自虐史観」の罪も深い。NYタイムズが西洋人の侵略の歴史を棚に上げて日本の「性奴隷」を指弾するのは自民族中心主義だが、日本のメディアがいまだにそういう話を繰り返すのは、自国の歴史を西洋的な差別意識でみる他民族中心主義である。
東京裁判のもう一つの意味は、A級戦犯をスケープゴートにして、それ以外の兵士や一般国民を免罪することだった。どこかで線を引かないと、新聞も含めて全国民が戦争の共犯者になってしまい、戦後の復興も困難になるからだ。この点で、A級戦犯を合祀した靖国神社は、戦後処理の意味を取り違えていた。
いずれにせよ、歴史問題に答はない。加害者と被害者が同じ歴史を共有することはできない。何百年も殺し合ってきたドイツとフランスは、今でも相手を許していないだろうが、それを口には出さない。日常的に戦争を続けてきた彼らは、忘れるという合意を知っているのだ。戦後70年を節目に、もう歴史問題を忘れよう。