看板娘
「とにかく明るくて、声が大きい子なんだよ」
ライフネットの第一号社員であり、しばらくは看板娘となる高尾美和のことを、出口はこのように繰り返し、評していた。
日本生命時代に出口の部下だった彼女は、学者であるご主人がフロリダに研究留学されるのを契機に同社を退職し、一年ばかり米国に住んでいたが、夏明けに帰国するとのことだった。
とにかく一度遊びにおいで、との出口の誘いに応じて僕らのオフィスを訪れた高尾にその話をすると、TシャツにGパン姿で現れたちょっと年上のお姉さんは、チャーミングな八重歯を見せて笑いながら、こう答えた。
「ハハハ。高校時代の友人には、『美和が笑ってる声は、違うフロアにいても聞こえてくる』と言われたことはありますよ」
確かに、地声は大きかった。準備会社の設立を控えた2006年9月、初めての仲間が加わった。
「出口さんと仕事をしたのは、最後の二年だけだけど。出口さんは公務部長という新設されたポストで、全国の県庁に保険を売る部署の責任者だったの。そこに、落下傘部隊として大卒の営業が二人だけ呼ばれて、私がその一人。
最初は私たちが行くと、支社の人たちには歓迎されなかった。協力して時間は割かれても、自分たちの成績とは関係ないから。
そこで出口さんは本部と取り合って、私たちが売った保険の成績は、社内的にはすべて支社の人たちの成績にもダブルカウントしてもらうようにしたの。それからは、地方に行くたびに、支社の人たちに大歓迎されたわ。だって、私たちが行ったら、保険がたくさん売れるから。社内接待みたいな感じで、皆さんと飲みに行って、いっぱいカラオケ唄ってた。一緒に、全国あちこち出張して、楽しかったわぁ。熊本とか、よく馬刺しとか食べたな。
私は出口さんのことを、心の底から尊敬していた。だから、帰国してニッセイに戻ってこないか、という話もあったのだけれど、私はこの会社にかけてみることにしたの」
誰とでもすぐに友達になる特技の彼女は、「目が合ったら保険に入ってしまうのでは」と思わせる独特の雰囲気と、ちょっとおっちょこちょいで怒りっぽい、自分の母親を彷彿させるところがあった。
仕事がちょっと飽きると、僕らはよくお喋りをしていた。
「高尾さん、有名人だと誰に似てるって言われますか」
「え。色々言われるけど。あ、そうだ!」
「誰ですか」
「えー、怒らない?」
「怒らないから言ってみてくださいよ」
「西田ひかるに似てるって言われたことある。ずっと前だけど」
「・・・ちょっとやめてくださいよ。僕、西田ひかる大ファンだったんですから。高尾さん全然似てないじゃないですか。どちらかというと、さざえさんだと思うんですけど」
「ちょっと待って、なによそれ。ひっどいなー。私、旧姓、青山なのよ。青山美和。どこかの女優みたいでしょ」
「・・・忙しいので、そろそろ仕事に戻ります」
そんな漫才のようなやり取りを出口は横で笑って見ながら、三人での日々が始まった。
「ネットライフ企画」設立
あすかDBJ、マネックス両社の社内手続きは順調に進み、いよいよ生保会社立ち上げに向けた、小さな企画会社を作ることが決まった。設立日は、「一粒万倍日*」である10月23日をターゲットにすることに。
まず、会社名を決めなければならない。当初案は「あすかライフ(仮称)」に始まり、途中から「イーライフ(仮称)」とも呼んでみたのだが、なんかしっくりこない。
あすかアセットマネジメントの皆さんに名前のアイデアを募集したこともある。そのときに出た案。「あすかあさって生命」「極楽生命」「真っ正直生命」
・・・この会社は外資系投資銀行出身者が作ったヘッジファンドだが、カルチャーは関西のお笑いなのである。なかなか、よい名前のアイデアは出ない。
結局、マネックスとあすかDBJと我々で話し合って、「ネットライフ」とすることにした。ちょっとだけ、アメリカの大手生保「メットライフ」に音が似ていますが。まだ企画会社段階なので「生命保険会社」という紛らわしい名前は使ってはいけないとのことで、「ネットライフ企画株式会社」と名乗ることにした。
名前も決まったところで、いよいよ会社を作れる、と意気込んでみた。しかし、ここで問題が生じた。
二人とも、会社の作り方を知らないのである。
出口は前職時代にいくつかジョイントベンチャーを立ち上げたことがあったが、当然設立の実務は部下に任せていのだろう。今回は、部下といっても僕しかいない。その僕も、会社は作ったことがない。司法書士の先生にお願いしてもよいのだろうけど、できたばかりの会社で何10万円も払うのもちょっと悔しい。
そこで、出口と決めた。せっかくゼロから作るんだろうから、全部自分たちで手作りでやろう。それの方が、愛着がわくし。早速出口が本屋さんに行って、「誰でもできる!株式会社の作り方」みたいな本を買ってきた。
それを開きながらパチパチ、人さし指で打ちながら、ワード文書で新会社の定款を作り始めた。僕に指示するのではなく、自分で書き始めたのである。この人、定款を自分でパチパチ書くなんて、すごいなぁ。そのときには素直に驚いた。いまから思えば、これが出口の「何でも自分でやってしまう」アントレプレナー精神の表れであったのだが。なぜか全文、明朝体の「太字」なのが気になったが。
できあがった定款をもって、赤坂見附の交差点付近の小さいビルの一角にある公証人役場へ行くことに。確か、雨が降っていたように記憶している。お昼過ぎ、傘をさしながら、二人で溜池山王のオフィスからゆっくり歩いて行く。必要な書類は定款のコピーと、発起人の印鑑証明、収入印紙。出口は行く前に何度か電話をして、必要書類を確認し、得意の話術で、行く頃には担当の女性の方とすっかり仲良しになっていた。
にもかかわらず、不備があることが発覚する。定款は3通必要なんです。なんで、2通しかないんだ?仕方なく、その場で先方がコピーを取ってくださる。提出して、公証人の方のハンコをいただき、認証は完了。
次は、いよいよ法務局での登記申請。これも普通は司法書士の先生に頼むのだろうが、自分でやることに。ただ難しいのが、設立日を23日ドンピシャと決めていたので、書類に不備があってはならないのである。そのために、事前に数回法務局に行って、事前相談の形を取る。これで、書類合ってますか。何度も確認をした。
特に、資本金+資本準備金合わせて1億円があることの証明。そもそもまだ法人がないので、ネットライフの銀行口座が作れない。そこで、両株主であるあすかDBJとマネックスの、銀行預金口座に5千万円ずつお金が入金されていることの、写しを用意しなければならないのである。一旦振替手続きをして頂き、その後、会社が設立されたのちに、実際に振り込んでもらうことになる。そんな面倒な手続きをお願いすることになった。
何度もリハーサルをしたのちに、迎えた10月23日再び出口と二人で港区の法務局へ向かう。その場ですべての書類を提出し、担当の方にチェックしてもらう。出口が書類を提出する瞬間、記念に携帯カメラでパチリ。内容のチェックを待っている間、ちょっとドキドキ。しばらくすると、呼ばれる。
「これで、手続きは完了です。問題がなければ、登記は11月7日にできあがります」
出口と、がっちり握手をする。ようやく、会社ができた!
* 一粒の籾(もみ)が万倍にも実る稲穂になる日、Wikipediaより