みなしごで、養父母の元でみじめな生活をおくるハリー・ポッター少年。彼が寄宿舎学校へ入学することにより、友だちを得て、ダンブルドア校長に代表され、かつ象徴される「社会秩序」にうけ入れられるとともに、実の両親の死の真相という自らの来歴(=アイデンティティー)を知り、仇敵ヴォルデモートとの対決という自らの使命を自覚する。
「ハリー・ポッター」に展開されている人生観や価値観は、イギリスのパブリック・スクールと呼ばれる、私立寄宿舎学校文化に根ざしたものであるといえるでしょう。
イギリスのパブリック・スクールの起源は、家庭で家庭教師を雇うだけの財力がなくなった貴族の子弟のために設立された学校です。要するに「プライヴェート」での教育ができなくなった人たちのための「パブリック」スクールというわけです。
パブリック・スクールは、その発展途上で恣意的にイギリス社会の礎石となることを意図されています。
宿敵フランス/ナポレオンを倒して、大英帝国の絶頂期に向かっていた19世紀初頭、パブリック・スクールの教育者たちは、自らの使命を、
「大英帝国を背負って立つエリートの養成」
と、はっきり自覚していました(例えばラグビー・スクール校長のトーマス・アーノルド)。こうした教育者たちが目指したのは、プラトンの「国家論」に描かれている古代ギリシャのスパルタにおける教育でした。
最近では映画「300」の冒頭で触れられていましたが、スパルタでは男子を幼いうちから家族の元から引き離し、寝食を共にすする集団生活を強制しました。そうすることにより、個人や一族の利益よりも、帰属する集団への忠誠心を養うことを目指したのです。
これにならい、イギリスのパブリック・スクールでも、幼児期から寝食をともにする集団生活を基本とし、勉強ももちろんしますが、チーム・スポーツにかなり大きな比重をおいた教育をさせたわけです。
イギリスのパブリック・スクール制度の面白いところは、それがエリート階級を形成する人員を送り出しているだけでなく、イギリスのエスタブリッシュメントともいうべき組織が、パブリック・スクール的な要素に満ちあふれていることでしょう。
(20年前の本ですが、イギリスのエスタブリッシュメントについてはこれがおすすめです。)
イギリスで法廷弁護士になるためには、所属する法学院で規定回数のディナー(夕食)をとらなければならないのですが、これはまったくパブリック・スクールにおける生活と同様の儀式です。それこそハリー・ポッターそのものといったガウンをスーツの上にまとい、幹部はホール(会堂)の上座しつらえられたハイテーブルに座ります。学生や若手弁護士はホールに平行して並べられたロングテーブルに座るのですが、これも四人一組で「メス(Mess)」というグループを形成し、資格取得の年次により席次が決まっており、原則このグループでワインをシェアし、メスの最年長者が食事の給仕をすることになっているのです。こうした儀式と社交を通じて、法曹メンバーは、価値観を共有し、集団への帰属性を涵養させていくわけです。
話がずれますが、日本史の中でも食事に関する儀式が重要だった時代があります。鎌倉武士は「�桁飯(わうはん・おうばん)」といって、主君を主賓として招き、沙汰人とよばれるホストが宴席幹事を勤める儀式を行っていました。特に 正月元日、二日、三日と将軍様をお迎えして行われる「歳首の�桁飯」は重要な儀式で、それぞれの日の沙汰人を務めるのは東国武士の実力者ナンバー・ワン、ナンバー・ツー、ナンバー・スリーでした。鎌倉時代研究の突破口は作家、永井路子さんによる「乳母(めのと)の影響力」の発見と、「吾妻鏡」における正月の�桁飯沙汰人の記録の研究が大きな意味を持っている、と私は思っているのですが、その永井さんが指摘するように、その年、誰が沙汰人をどの日に勤めたかを見ることによって、実は北条氏の抬頭はかなり遅い段階から始まったことがわかるのです。初期のころの沙汰人は、当初の関東御家人の最大実力者、千葉氏がこれを勤めています。永井さんや、杉本苑子さんもそうなのですが、いったい誰が子供を育てていて、日々なにをどのように食べているのかという、生活の基本に注目した歴史研究はもっと注目されてよいでしょう。主人公の「枕を調える」ためだけに出てくるような「都合のいい女性キャラ」しか描けないような某歴史小説家の作品ばかり読んでいると、戦争しても敵の銃弾よりも兵站線の崩壊による飢餓で兵隊を失うような指導者にしかなれません。同じようなことが最近の少子化対策にもいえると思うのですが。
閑話休題。言帰正伝。
イギリスではパブリック・スクールという特殊な「象牙の塔」的、学校制度が、人と人とのつながりを演出する世界になっていますが、アメリカはよりコミュニティに根ざした社交的枠組みの伝統が強いように思えます。
面白いのは「建国の父」の一人、ベンジャミン・フランクリンが、まだ21歳の若僧だったとき、フィラデルフィアで仕切っていた 「フント(Junto、ラテン語で「会議」の意)」という雑談サロンの存在です。ここでの議論や会話がその後の独立運動に結びついていくわけです。21歳でそんなサロンを仕切っていたベン君。17歳のときにボストンの実家を家出してきたばかりの印刷工にしては驚くべき社交上手です。
(このフランクリンのフントに倣った社交クラブが、一昔前にヘッジファンド・マネジャーたちの間で流行っていましたが、あれはどうなっちゃったんでしょうね。リーマン・ショックと共に消え去ったのでしょうか。)
東海岸のボストン(ジョン・アダムズ=弁護士)、ニューヨーク(アレクサンダー・ハミルトン=弁護士、アーロン・バー=弁護士)やフィラデルフィア(ベンジャミン・フランクリン=ビジネスマン)のように商工が発展し、都市生活が可能であった場所では「サロン」も可能でしょうが、南部のヴァージニア州のように、農業中心の社会で、田園生活を強いられていた人たちにとって、社交の中心は教会ですが、まさか牧師さんの説教の後に、教会の庭(墓地?)で「政教分離」の話もしにくいでしょう。それにワシントンやジェファーソンのような大農場主になると、自分の敷地内に礼拝堂があったりします。そこで登場したのがフリーメイソンなんじゃないかなと私は思うのです。陰謀説では定番、大人気とさえもいえるようなフリーメイソンですが、その当時の実像は、
「お父さん、ちょっと出かけてくるよ...」
18世紀版「男の隠れ家」、だったのではないでしょうか。
こうした「フント」や「フリーメイソン」の現代のかたちが、ロータリー・クラブやライオンズ・クラブ、キワニスといった地域密着型(しかしネットワークはグローバル)の社会奉仕団体ではないかと思います。
去年、出版されたCNNの創始者、テッド・ターナーの自伝、「Call Me Ted」を読んでいておもしろかったのは、彼がまだジョージア州でローカルな屋外広告(ビルボード)専門の広告屋さんだったときの話です。新しい町に進出する時、ロータリー・クラブのメンバーであることを利用して、ローカルなコネを作っていくあたりの描写は、まさに「正しいアメリカのセールスマン」です。テッド・ターナー氏の座右の銘の一つ「They profit most who serve the best(最高の奉仕をするものが、最大の利益を享受する)」はロータリーのモットーでもあります。ここらへんの精神は、元祖ビジネス・コンサルタントであったフランクリンさんからの伝統ともいえましょうか。
何事にも正統性を重んじる中国においては、「科挙」に代表されるエリート集団のつながりと、地縁/血縁を基本としたつながりが二大山脈となっているような気がします。この二大山脈の現代の姿が、現在の胡・温執行部に代表される中国共産主義青年団(共青団)出身グループと、習近平氏などに代表される「太子党」とよばれる、共産党高級幹部たちの子弟によって形成されるグループでしょう。
もう一つ、中国文化においておもしろいのは「江湖(じあんふう)」というコンセプトです。「江湖」という言葉の意味するところを、日本語でいうとすると、ヤクザ映画などで登場人物が口にする、
「シャバの風は冷たいぜ...」
というときの「シャバ」と通じるところがあるように思えます。
元来、儒教原理主義的には言えば、親が生きている間は、遠出もできない、または遠慮しなければならないような中国社会において、世間を彷徨う「渡世人」などというのは、それだけでかなりアウトローな存在です。こうした世間のあぶれものが出会う世界が「江湖」であり、そこで尊重されるのは「任侠道」という価値観なのです。
分かりやすく言えば、桃園で義兄弟の誓いを結ぶ、三国志の劉備、関羽、張飛の世界ですね。(ただし横山光輝バージョンではなく、王欣太版「蒼天航路」の方がそれに近い。)そして「水滸伝」は「江湖」の世界そのものです。
かつては運河で働く水夫たちや、駅卒などが「江湖」の主な構成人員でした。元を滅ぼし、明を打ち立てた朱元璋の兵卒のコアの部分は、水運従事者が白蓮教という宗教を媒体につながったものでしたし、明末の盗賊、李自成は、元を正せば失業した駅卒でした。
現代中国では、あれだけの大人口が、出稼ぎや移住などにより大移動しているのですから、地縁や血縁、出身地における社会的地位を横断したところに「江湖」的な世界とそれに準じた人と人とのつながりが出現しているのではないかと思うのですが、もしかしたらそれは中国政府が警戒するところかもしれません。
最後に、わが日本。
人間関係がすべて縦割りだった江戸時代に、社交や意見交換の場を提供していたのは、千葉・桃井・斉藤の江戸の三大道場や、新選組を生んだ試衛館をはじめとする剣道道場だったり、緒方洪庵の適塾(大阪)、吉田松陰の松下村塾(山口)、そしてマイナーなところでは高野長英や村田蔵六が学んだ広瀬淡窓の咸宜園(大分)だったりしたわけです。
やはり長幼の別の厳しい日本では、メンバー同士の対等な付き合いを基本とする「サロン」社交よりも、同じ「先生」を恩師と仰ぐ、門下生という人間関係が一番受け入れやすいのかもしれません。
残念ながら、大学が受験戦士たちのモラトリアムの場と化し、就職までの昼寝場所となってしまった時、ある一定の世代の日本人は貴重な「出会いの場」を失ってしまったのでしょう。
「アゴラ起業塾」が活況を呈しているようですが、それは「起業」に対する熱意はもとより、志を同じくする人たちが共有する「繋がりたい」という熱い思いの証左ではないでしょうか。