★★★★☆(評者)池田信夫
著者:ハイエク
販売元:春秋社
発売日:2010-07
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哲学論集といっても、ハイエクの哲学的エッセイは(よくも悪くも)わかりやすい。ポストモダンのような博引旁証のレトリックはなく、出てくるのはアダム・スミスやヒュームぐらいで、ドイツ観念論の系列はほとんど出てこないし、20世紀の主流だった現象学や構造主義はまったく出てこない。「ハイエクの自由主義はカントに似ている」というジョン・グレイの評価に対して、ハイエクは「私はカントをほとんど読んだことがない」と答えている。
もちろんこれは彼の哲学的な価値を下げるものではなく、真にオリジナルな思想はそれ自体の力で立っている。彼の代表作ともいうべきノーベル賞講演では、新古典派的な合理性の傲慢を批判し、無知こそが経済学の出発点だと語っている。これは1930年代から変わらぬ彼の信念であり、今回の世界経済危機で改めてその重要性が再評価されている。
ただ、晩年の彼が気づいていたように、非西欧圏も視野に入れて考えると、ハイエクの思想が欧州ローカルであることは明らかだ。特にリバタリアンの依拠する「負荷なき自己」がフィクションであることは、サンデルも指摘する通りである。
では、それに代わるモデルがあるのだろうか。残念ながら、サンデルを初めとするコミュニタリアンは、リバタリアンほど単純明快な人間像を示していない。政策的インプリケーションとしても、ハイエクの古典的自由主義からは規制撤廃や国営企業の民営化などの具体的な政策を導くことができるが、コミュニタリアンは「市場経済が常に正しいとは限らない」という無内容な批判しかできない。
歴史的にも、「市場の失敗」を是正するために政府が市場に介入するケインズ主義の有効性は低下した。経済がグローバル化して複雑になり、テクノロジーが急速に進歩して未来が予見しにくくなればなるほど、「人々の知識は不完全だから、分散したままの知識を使って試行錯誤する価格メカニズムが望ましい」というハイエクの単純な哲学は有効性を増してきたのである。
ハイエクの個人主義が問題を過度に単純化しているという批判は正しいが、それは単純であるがゆえにわかりやすく、非西欧圏にも受け入れられつつある。それを乗り超えるためには、それより普遍的でわかりやすい人間像が必要だが、いまだにそういう代替案は見当たらない。ハイエクの自由主義は、スミス・ヒュームの時代から変わらない近代社会の基本思想だからである。
コメント
「負荷なき自己」が本質的にはフィクションなのは先のサッカーのワールドカップでも証明されてますね。
イングランドやイタリアの選手達の国民から受ける勝利へのプレッシャーでひきつった顔や普段サッカーを全く見ないで、オフサイドもわからない人々が日本代表の勝利に浮かれる姿をみればね。
しかし限定的に「負荷なき自己」が機能する人々はいますね。
それは移民の第一世代です。
かれらは新天地の国や地域になんら愛着はないでしょう(それでもサンデルが指摘するように家族への愛着は強いでしょうが)。
アメリカでも移民による起業は多いようですし。
日本においても不法移民である朝鮮人による起業は盛んでした。(強制連行なるフィクションを信じるほどわたしはお人好しではないので)
大企業に成長した企業もありますよね。
しかし三世四世の時代になるとすっかり起業家精神がなくなり社長の馬鹿息子と化しているようです。
日本に起業家精神が必要なら移民を受け入れるしかないでしょう。
労働人口の増加にも繋がるのでしがらみから解放された合理的思考からは賛成出来る筈です。
しかし国、民族、地域社会への愛着が個人のアイデンティティの源泉だとするなら日本はアメリカのようにはいかないですね。