尖閣問題 ―「集団安保反対派」と「日米対等論者」の意見が聞きたい!

北村 隆司

「日韓関係」は、「竹島」などで事あるごとに燃え上がり、「日露関係」のアキレス腱である「北方領土問題」を巡っては、ロシア議会が9月2日を「対日戦勝記念日」とする法案を可決するなど、緊張が高まっています。その様な時に「中国漁船衝突事件」が起こり、改善に向っていた「日中関係」も怪しくなって来ました。


四方海に囲まれた日本は、西に「竹島」、北に「北方領土」、南に「尖閣諸島」と言う国境紛争の火種を抱え、遥か東方に位置する米国だけが、何とか日本寄りの姿勢を示してくれている現状です。海外に「まさかの時」の友人が少ない日本の現実は、経済的な地位の低下より一層の寂しさを感じさせます。

戦後一貫して平和外交を推進し、発展途上国には巨額な援助を続けて来た筈の外務省は、その辺の事情を国民に説明すべきです。

然し、友人を得られなかった日本外交の責任の全てを、外務省に押し付ける訳にも参りますまい。何故ならば、日本外交の裏には、紛争解決に自ら犠牲を払うことを拒み、金銭援助だけを望む強い世論があったからです。

国境や領土を巡る紛争が頻発していた欧州では、ボスニアやコソボを巡っての熱い戦いの沈静化と共に一触即発の危機も一段落しましたが、ここまで来るには、紛争地から遠く離れた国の多くの若者の血が流された事は記憶に留めるべきです。

日本はこの紛争の際も「イラク・クウェイト紛争」と同様、「人的貢献」を拒み、金銭援助に限りました。この外交政策を知る諸外国が、経済的地位を落としつつある日本に対して、「金の切れ目が縁の切れ目」と言う外交態度をとるとすれば、日本はのんびりしておれません。

日本が外国の紛争に冷淡な理由が、ガンジーの様な無抵抗運動に根ざしたものであれば、それなりの意義はありましょう。然し、本当の理由が「他人のトラブルには拘りたくない」と言う社会的風潮の延長にあるとすれば、誠に憂慮すべき現象です。「非武装中立」「集団安保反対」「日米対等」等の論議が、この日本の風潮に乗った単なる人気取りであれば、尚更問題です。

尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件の情報を受けた米国政府は「有事の際は日米同盟を援用してでも、中国の軍事的影響力行使を抑止する」と言う意向をいち早く明らかにして、中国に圧力をかけました。

この圧力を、日本に対する力強い声援と歓迎する私ですが、米国の紛争介入には間髪を入れず反対の火の手を挙げてきた「集団安保反対派」や「日米対等論者」が何も発言しないのは何故でしょうか? 尖閣を管轄する沖縄県の仲井眞知事も、オスプレイの沖縄配置には素早く反対を表明しましたが、この問題では沈黙を守り続けています。

何でも反対の福島社民党首や志位共産党委員長は、米国が日本側に立って介入する意思を示した今こそ、「米国の不当介入」に反対して「非武装中立主義」「集団安保反対論」の正しさを国民に説明する義務があります。

又、「友愛」と言う妄想と無責任な冗舌で「沖縄」を混乱させ、日米関係を戦後最悪にさせた鳩山前首相や小沢氏などの「日米対等論者」も、尖閣を巡る米国の介入の是非と、対等な日米関係とは何かを巡って、活発な論陣を振るって欲しいと思います。

戦前の日本政府の誤った政策に依り、筆舌に尽くせない戦争被害を受けた沖縄県民に対しても、日本国民は沖縄県人の負担を分担せず、「振興策」と言う金銭処理で対処して来ました。これも、同胞であっても「他人のトラブル」には拘りたくないと言う風潮の根深さを物語っています。

悲劇の再来を防ぐという点では、多くの行き過ぎはあるにせよ、ユダヤ人の反ホロコスト運動には、迫真の力を持って迫る真剣さを感じます

それに比べ、沖縄、原爆の悲劇を体験した日本の原爆反対、平和維持運動に迫力が欠けるのは、「自ら犠牲を払ってでも」原爆を阻止し、平和を守ると言う日本人の一致した決意が感じられない事に有ると思います。

米国が尖閣の有事の際には日本を支援する方針を明示したこの時期に、「集団安保反対」と「日米対等」を唱える政治家は、集団安保にも米国にも依存しない具体策を国民に示す責任がある筈です。