原発パニックという過剰コンプライアンス

池田 信夫

福島第一原発の冷却作業は落ち着き、東電も工程表を発表したが、「放射能の恐怖」をあおる言説が跡を絶たない。これは日本社会の病である過剰コンプライアンスの一種で、行動経済学的なバイアスとして説明できるが、合理的行動として説明することも可能だ。


ブログでも書いたように、マイクロシーベルトのレベルの放射線は人体に無害だが、政府は微量の放射線も人体に影響するという前提で避難勧告などを出している。これは行政の行動としては合理的である。避難させないで事故が起きた場合は行政が批判を浴びるが、過剰に避難させて何も起きなくても、経済的な損害を賠償するのは東京電力だからである。

このように行動の利益とコストが非対称になっていて「表が出たら私の勝ち、裏が出たらあなたの負け」という構造になっていると行動がゆがむのは、金融や保険でおなじみのモラル・ハザードである。BSEのときも、たった1頭のアメリカ牛が汚染されていただけで、すべてのアメリカ産牛肉が輸入禁止になった。何も起らないことで官僚は地位を守れるが、過剰コンプライアンスのコストは納税者が負担する。

このような行政のバイアスを補正するのがメディアの役割だが、むしろメディアがバイアスを増幅している。リスクのはっきりしない事象を「危険だ」と報道することは一種の賭けだが、これが正しければ読者を引きつけることができる一方、誤っていたときは責任を行政に転嫁できるからだ。

今回の原発事故でも、マイクロシーベルトの放射能汚染をメディアが誇大に騒ぐため、福島産の農産物に風評被害が広がっているが、どんなに騒いでもメディアは責任を問われない。行政が避難勧告を出したからだ。このような多重のモラル・ハザードによって、ほとんど実体のない仮想的な「被害」が拡大している。

ただソーシャルメディアでは(一部の自称ジャーナリストやそれにあおられた素人を除いて)比較的バランスのとれた情報が流通している。普通の個人には、上にのべた行政やメディアのようなインセンティブの非対称性がないからだ。モラル・ハザードを防ぐには、正しい情報を流通させて情報の非対称性をなくすことが一番の対策である。

コメント

  1. 故郷求めて より:

    BSEについては伝統的なヤコブ病とvCJDとの区別すらついていない新聞記事がありました。メディアはありもしない危険を煽り立てたのですがそれによるコストを負担したのは農家や消費者だったわけです。

    国内のBSE感染で酪農家が風評被害にあったのを、今度は米牛禁輸で取り戻そうという政治的意図ではないかという陰謀論に与したくなるほど、あの米牛禁輸はおかしかった。今でもそのおかしな状況が一部続いてるわけですが、なるほど政府もマスコミも科学的根拠のない「防護策」による無意味なコストの責任は取りませんね。国民は日米関係の悪化というリスクもしょってしまっているんですけどねえ。

  2. worldcomw より:

    ソーシャルメディアは有効ですが、まだ未熟です。
    現状では、デマの拡散という逆効果の方が大きいように思います。
     ・同じ情報を圧縮、数量と重要度で重み付け
     ・拡散途中のデマを遮断する機能
    これが実装出来れば、より有効に機能するでしょうね。

    他には、風評被害を逆用する動きにも注目しています。
    例えば海産物などは、中抜きして漁師が消費者に直接売る仕組みを普及させれば
    双方の利益になります。
    マスコミに扇動される情報弱者は無視しても、商売は可能です。
    楽天やSBがやるかと思っていたのですが、まだ極部分的なもののようですね。

  3. tasuke7915 より:

    先生の意見に全面同意です。モラルハザードについて一言。原子力政策を推進する狙いからか、火力や水力、太陽光発電など他の発電方法とコスト比較する際に、電力会社側で発生するコストのみを捉えて、結果として原子力発電が不当にコストアドバンテージがあるように見せている状況も、ある意味、モラルハザードだったのではないでしょうか?

    実際のところ、公開されている単価に加えて、原発設置された自治体に対して毎年支払われる巨額の立地対策費用、消費者が負担させられている使用済み核燃料の処理費用までを含めると、あんなに安価な筈はありません。

    正しい情報を公開して情報の非対称性を防ぐことは、ご指摘の通り重要ですし、モラルハザードへの効果的対策になると思います。

  4. yosojii より:

     今回の政府の発表やマスコミ報道は、個人の行動にさほど影響は与えていないと感じています。テレビに出てくる学者さんは概ね「放射性物質は大丈夫」と発言しています。逆に「危ない」発言は限られた方だけです。政府も「冷静に対応を」というコトバも頻繁に発しています。石原さんはコップの水道水を飲み干し、管首相はキュウリを食べた。でも、国民はこれらと逆の方向を向いてます。何故か?学者さんからは人間的な賢さや知性がほとんど感じられず、マスコミからは情報収集の稚拙さと鈍さしか感じられず、国の機関からは国民を信頼して情報を公開するという胆力や親愛の情が感じられない。それらを国民は敏感に察し、信じるに足らないと突き放されているからだと思います。国民をそうそうナメテはいけませんね。過剰コンプライアンスなどとは全く性質を異にします。

     また、福島県産の農作物は風評被害にあたりません。原因に関係のない大阪産のほうれん草までもが売れなくなったら、それは風評被害にあたります。そんな事実はありません。国民は至って冷静です。福島県産の農作物が売れない原因は原発事故だけにあり、損害の責任は東電と国にあります。市場にあるどの野菜を選択するかは国民の自由です。たとえ口に入れて被害の殆どないものでも、隣に並んでいるもっと安全な野菜を選ぶことは、競争原理に基づく全く正しい消費行動です。風評被害などと都合よいコトバで損害の責任を曖昧にし、いかにも社会現象のように誤摩化すことこそ、健全な社会を不健全なものに変えていっていまう「空気」を生み出してしまいます。その「空気」こそが、真理と掛離れた無責任を生み出し責任の曖昧化の手助けをします。これは日本社会の悪い特徴です。

  5. belgian_waffle より:

    「正しい情報を流通させて情報の非対称性をなくすことが一番の対策」と言っても、政府は現在に至っても「正しい情報を流通させない」どころか「正しい情報を隠蔽している」のですから、どうしようもないですね。尖閣ビデオの隠蔽で、多くの国民は現政権の隠蔽体質を知ってますから、普段以上に情報公開に努めなければ信頼を得られないのに、責任回避のために隠そうとしているようにしか見えない。メディアが正義などとは言いませんが、諸悪の根源はメディアではなく、現政権にあるのは間違いないと思います。

    池田先生には「正しい情報」を入手できる特別なルートがあるのでしょうか?そして、それが「正しい」といえる根拠は何でしょうか?

  6. minourat より:

    > リスクのはっきりしない事象を「危険だ」と報道することは一種の賭けだが、これが正しければ読者を引きつけることができる一方、誤っていたときは責任を行政に転嫁できるからだ。

    この問題の構造はもうすこし複雑だとおもいます。

    まず、 消費者の行動と利得

           食べる         食べない
    有害    --- (損失大)   - (代替品高コスト)
    無害      0            -  
       
    次に、 メデアの行動と利得 (消費者がメデアの報道にしたがうとき)

           有害と報道       無害と報道
    有害      +           ----
    無害      --           +  

    つまり、 有害なものをメデアが無害と報道し、 消費者がその報道にしたがうと大損失をし、 メデアの信頼が失墜するということです。

    また、 有害の報道があったとき、 危険性を正しく判定できる消費者の行動と利得はつぎのようになります。

           食べる       食べない
    有害                 - (代替品高コスト)
    無害    + (安くなる)    -  

    つまり、 危険性を正しく判定できる消費者にとっては、 メデアの誤報が有利になるということです。

  7. iris60 より:

    今の原発は工学的に危険なので積極的な推進は無理があるが、現状維持は止むを得ないという考え方も一種のモラルハザードを惹起しないでしょうか?
    かつて藤原保信はM.ウェーバーを批判して、社会科学からの価値判断排除はその現状維持イデオロギーへの堕落を招くと主張しました。池田先生が藤原氏の「自由主義の再検討」を好意的に紹介されているのを見て驚ろいたことがあります。コミュニタリアンの藤原氏の思想的立場は、池田先生が痛烈に批判される宇沢弘文氏にかなり近いと思われるからです。
    喫煙による癌の発症や交通事故は当事者とその周囲の人間の生活を破壊しますが、原発事故は社会システムそのものを破壊してしまうのは見ての通りです。その原因が風評であれ、政府のモラルハザードであれ、放射能という「亡霊」に対する恐怖であれなんであれ、「社会」が壊れてしまうのです。ここにリバータリアンの限界を見るのは誤りでしょうか? なぜなら、リバータリアンはそもそも議論の前提としての「社会」の存在そのものを認めていないからです。

  8. bobbob1978 より:

    「つまり、 危険性を正しく判定できる消費者にとっては、 メデアの誤報が有利になるということです。」

    確かに。私は茨城県在住ですが、出荷停止になっていない茨城県産の野菜まで市場価格が下がっているおかげで安く手に入れることが出来て得しています。大体以前の6割前後の値段になっています。

  9. tipps より:

    なんだか不思議ですね。「日本社会の病である過剰コンプライアンス」とのことですが、日本以外でも…というより日本以外のほうが今回の福島原発事故に対するリアクションが激しいような気がするのですが。ドイツやフランスでの反原発デモなんて日本のデモなんかかわいく思えるくらいの参加者数だったみたいですし、インドなんか死者が出る騒ぎの様子。で、実際に各国の電力政策が確実に影響を受けているようなんですが、こういう動きってどう解釈すればいいんでしょうか? 「日本社会特有」ということであれば、日本以外の国ではもっと冷静に受け止め、反原発の動きなんか全く起きないんじゃないのかな、と。

  10. mshino3523 より:

    >リスクのはっきりしない事象を「危険だ」と報道することは

    これについては可能な限り詳細な調査を行う必要があると思う。
    中世ヨーロッパで「魔女狩り」という集団ヒステリーが流行ったのも、
    伝染病の原因がつきとめられないことへの不安から生じていたはず。

    近藤誠・慶大医学部講師が緊急寄稿
    「100ミリシーベルト以下の被曝量なら安心」はウソっぱち!
    http://gendai.net/articles/view/syakai/129864

    > 低線量被曝による健康被害は、「晩発性障害」を引き起こしやすく、
    >短期の追跡調査では表れにくい。しかも、線量計で被曝線量を測定する人は
    >まずいないので、データはほとんどありません。
    > だからといって安全というのはウソです。
    > そもそも100mSv以下の低線量被曝による発がんリスクには、
    >2つの有力な仮説があります。


    有名医師の寄稿だが、『仮説』だけでいちいち規制強化などしていたら、
    それこそ規制だらけの世の中になりそう。こんにゃくゼリーはダメだが
    モチは良いのだとか、それこそチグハグでナンセンスな規制社会になってしまう。