小幡さんへの反論:私の話は、やや類型化しすぎたかもしれませんが、意思決定が政治家によって行なわれるか官僚によって行なわれるかの分析は政治学でも多い。昔、私のブログでも紹介したように、これはShleiferなどのいう英米型と大陸型の経済システムの違いに対応します。
前者は慣習法で、立法と行政が分離され、競合することも多いため、これを調停する司法の力が強い。これに対して後者は市民法で、立法と行政が統合され、「開発主義」的な政策がとられる。この分類には例外もあって、社会主義国は超大陸型で、立法と行政と司法が完全に統合され、政府と共産党も一体化している。霞ヶ関のみなさんの実感では、日本は社会主義国ほどではないが超大陸型に近いそうです。
これには一長一短があります。書評論文でも書いたことですが、たとえば通信行政では、1980年代までは大陸型が強く、ITU標準が主流でした。しかしアメリカではFCCと議会が対立して通信規格が統一できなかったため、ITUとはまったく別のところから出てきたTCP/IPがde facto standardになり、これが圧倒的な低コストでISDNやX.25などのITU標準を駆逐しました。
他方、携帯電話では、EU全域でde jure standardとなったGSMが成功し、州ごとにばらばらの標準を認めたアメリカは、いまだに規格が統一できない。日本は「ガラパゴス規格」のPDCで大失敗し、世界市場から追い出されました。
このように政治主導(英米型)がいいか官僚主導(大陸型)がいいかは一概にはいえないのですが、ざっくりいえば目標が決まっていて実行段階の効率だけが問題である場合には後者が、大きな「パラダイム転換」が必要な場合は前者がいいといえるでしょう。Shleiferの研究には異論も多いが、日本に関する限りかなり当たっていると思います。
いま日本の逢着しているのは、明治以来の官僚機構が立法も司法も実質的に統合してきたシステムがうまく機能しなくなっているという危機です。ところが他のサブシステムが100年以上、官僚に依存してきたため、自立できない。政治家は政策立案を官僚に丸投げする癖がついており、裁判所は行政の決定を追認する機関でしかない。
これを変えられるかどうかについては、私は悲観的です。Shleiferによれば、英米型から大陸型に変わった国もその逆も、世界中に1ヶ国も存在しない。できることは、超大陸型の統治機構をせめて普通の大陸型に変えることぐらいでしょう。