中国には金はあっても文化がない=香港人に残されたプライド―香港
2011年11月15日、星島環球網は記事「中国本土で働く香港人のプライド=中国本土人は金はあっても文化がない」を掲載した。
香港科技大学の研究によると、24万人もの香港人が現在、中国本土で働いている。彼らの「中国本土体験」が、香港もまた中国の一部だというアイデンティティーを強化する機能を果たしているという。
興味深いのは香港人が中国本土人をどう見ているのかという認識だ。アジア金融危機以前はあらゆる面で香港が優越しているという感覚を持っていたが、その後、中国経済が急成長。勢いはむしろ中国本土にある。こうした状況で、香港人は「中国本土人は金を持っていても、文化がない」という見下すことでプライドを保っているという。
先日、香港フットボールクラブで夕食を簡単にすませていたら、「日本大好き」という香港人スタッフが話しかけてきた。
そこで、なぜ彼女が日本が好きかという話になり、彼女は「日本は文化がいい」というのである。
しかし彼女が「文化=カルチャー」という言葉を使う時、その意味するところは、日本人の感覚からいうと「民度」のことだ。
曰く、サービスがいい。曰く、人が親切。曰く、礼儀正しい。
どうしても「文化=カルチャー=アート=芸術」と連想する、日本人な私の認識とちがう。
やはり孔子のお国の人のいう「文化」とは、「衣食足りて礼節を知る」ということが基本なんだなぁ...と思い至った次第。
ひるがえって、「衣食」が足りてきたのに、「礼節」をしらないといって、本土中國人を叱るのである。
「カルチャー=文化」と訳した日本人は、「湯=おふろ」(本当はスープ)と訳してしまった(と一説に言われている)空海/弘法大師以来のチョンボではなかろうか。
同じ「漢字の国」と油断していると、思わぬ「落とし穴」があるのだ。
儒家というのは何かというと、わかりやすくいえば冠婚葬祭屋、儀式業者である。
儒家は「文」ということを最も重んずる。「文」というのは模様とヒラヒラである。実用的には無意味な飾りである。
衣服というものは本来、人間の身体を寒さや害虫や岩の角から保護するためのものであるから、その役に立てば足りる。これを「質」(実質、実用)という。しかし人間の生活が進歩するとそれだけでは物足りなくなって、衣服に模様を描いたりヒラヒラをつけたりする。これが「文」(もよう、かざり)である。儒家は、人間の生活が「質」だけであっては禽獣と大差ないのであって、「文」があってこそ万物の霊長たる資格があると主張するのである。(高島俊男 「中国の大盗賊・完全版」p.90)