世の中で多数の人がやっていることをやらないと、“なぜ?”と聞かれます。大企業を辞めると“なぜ?”、籍を入れないというと“なぜ?”、結婚5年目で子どもがいなくて“なぜ?”と問われる人も多いでしょう。
この“なぜ?”は、厳密に言えば「なぜ他の人がやっていることを、あなたはやらないの?」という質問です。
ですが、質問している人はたいてい思考停止状態なので、そういう質問だと認識していません。“なぜ、あなたはフリーターなの?”という質問の裏返しとして、“なぜ、あなたは定職についているの?”という質問も成り立ちうることを、質問者は意識していないのです。
自分がやっていることは、世の中の大半の人がやっていることである。したがって、自分は“普通”であり、普通でない人に“なぜ?”と聞くことは自然なことである、と質問者は思っています。でも世の中の正非は多数決で決まるものではないし、人と違うことをやること、考えることは、不自然なことでも悪いことでもありません。
民主主義とは多数決のことです。でも、それは「多数派の意見が正しい」という意味ではありません。多数派の人から、“あなたはなぜ世間の人と同じ事をしないの?僕は世間の人と同じことをしているのに。”と聞かれたら、“なんで皆と同じことをする必要あるの?”と聞き返したくなります。
日本でも2代前なら、“なぜ女なのに大学なんて行くのか?”と言われました。今なら反対の方向に質問は投げかけられます。つまり、本質的にどちらが当然か?という問題ではないのです。それは「どちらがこの地域、この時代において、多数派か?」という話に過ぎません。“社会的なこと”や個人の生き方に関して、「本質的に自然なこと」なんて存在しないのです。
大半の人が東に向かって歩いている時に西に歩くいる人は、心から西に行きたい人です。みんながやっているから、という理由以外に、「西を志す強い理由」があるから人と逆行しているのです。軽く「西に行きたいな~」くらいでは、みんなと逆には歩けません。周囲と異なる道を選ぶのには、大きな決意とエネルギーが必要なのです。
だから多数派の人は、むやみに少数派の人にたいして“なぜ?”って聞くのはやめましょう。世の中の人と同じ事をやっている人が、そうしない人に対して“なぜ?”と聞くその言葉ほど、その無知をあらわにし滑稽に聞こえるものはありません。
少数派の人というのは、「自分はこれしかない」という道を進んでいるのです。寧ろ自らを振り返り、自分が進んでいる道は、「他の誰も歩いていなくても、自分はこの道を選んだだろうか?」と考えてほしいものです。
結婚している方へ:世の中の大半が結婚しない社会でも、あなたは結婚してますか?
大学へ進学した方へ:世の中の大半が中学をでて働く社会でも、あなたは・・・?
働いている人へ:世の中の大半の人が、プーの世の中でも、あなたは・・・?
多様な生き方が認められる世界こそ、“豊かな社会”だとちきりんは信じています。日本も、そういう社会に一歩近づく一年でありますよう。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
ちきりん
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