これからの日本人のための「おまじない」 ー アゴラ研究所の発足に寄せて

矢澤 豊

Nullius in verba

ヌリアス・イン・ヴァーバ

Take nobody’s word for it.

思い切って意訳すれば、「他人様の言葉を鵜呑みにするな」とでもいえようか。


イギリス、ロンドンのバッキンガム宮殿を正面に向かって伸びる、街路樹に縁どられた道はThe Mall(ザ・モール)と呼ばれる。イギリスで国家的慶事がある際、必ず舞台背景となる場所だ。最近では、ウィリアム王子の結婚式の馬車行列が通り過ぎていった。

道の南はセント・ジェームズ公園。北側には白亜の建物がならぶ。このカールトン・ハウス・テラスと呼ばれる建物の一角を占めるのがRoyal Society(ロイヤル・ソサエティー)だ。

ロイヤル・ソサエティーは、当時の英国における第一線の哲学者や科学者(当時は、ほとんど同義語)により、1660年 に創立された、世界初の国家的シンクタンクだ。

ソサエティーの創立以前、科学者たちは非公式の会合を通じて、当時の最先端知識の交換を行っていた。こうした集まりはInvisible College(目に見えない学院)などと呼ばれた。ようするに17世紀の「オフ会」だが、こうした「オフ会」の参加者たちは、後日、自分たちの社交活動が、フリーメイソンやら薔薇十字騎士団など、たとえば「ダ・ヴィンチ・コード」に代表される数多くの秘密結社関連の陰謀説/ヨタ話のネタとなるとは思ってもみなかったことだろう。

このロイヤル・ソサエティーの創立に当たって、そのモットー(座右の銘)として選ばれたのが、Nullius in verbaという言葉だ。

当時はまだ教会による宗教弾圧と迷信が幅をきかせる、中世的色彩が色濃く残っていた時代だ。天動説を唱えて、カソリック教会の弾圧を受けたガリレオのエピソードは、当時の科学者にとっては、つい最近のできごとであったし、いまだに一年間に百人単位で(主に)女性が魔女狩りのエジキとなって、火あぶりの刑に処されるという現実に日々直面していた。

加えて当時のイギリス人にとってこの時期は、議会派と王党派とが国を二部した内戦(1642~1651)、クロムウェルによる共和政の樹立とその崩壊(1652~1660)、そしてチャールズ2世による王制復古という政治的激動期を経た直後にあたる。

このような時代に、無知・妄信にとらわれた権威・権力から自由かつ安全な立場において、実証的科学研究を進める場の必要性を、科学者たちは身に沁みて感じていた。

「ロイヤル・ソサエティー」の旗の下に、その場を得た彼らは、そのモットーで俗世のアホな権力者との訣別を宣言したのだ。

「科学者である我々は、あなたたちの言葉を盲信しない」と。

このロイヤル・ソサエティーの存在と、その実証科学の精神が、その後のイギリス、ひいては大英帝国の大躍進の源となる。

たとえば「ボイルの法則」の発見者、ロバート・ボイルはソサエティーの創立メンバーであった。しかし初期のソサエティーで、他を圧倒する存在であったのは、アイザック・ニュートンだろう。(ニュートンは1703~1727の間、ソサエティー会長を務めた。)

このロイヤル・ソサエティーが中心となってイギリスに科学革命が起り、これがのちの産業革命へとつながる烽火となったのだ。

2011年。地震、津波という自然災害と、原子力発電所からの放射の漏洩という国家の危機に際して、日本の「頭脳」は世界が注視する目前でその信用を失った。

いまさらではあるが、日本のアカデミアは、実証科学という信条をよりどころとし、俗世の権威・権力から超越した実力主義の世界ではなく、「官」という政府権力との不純な結託と、そこから生じる汚染のなかで年功序列的宿痾が幅を利かせる、権威主義の巣窟であった。

あまりにいい加減な「科学者」たちの節操に、いまさら驚いたような顔をした日本のマスメディアが献呈したのが「御用学者」というレッテル。定まるところのない振り子のような日本のメディアの一部は、これまた科学的実証とは無縁な、自己完結の正義をふりまわす、現代の魔女狩り裁判所、宗教的扇動者となり果てた。

こうしてみると、今の日本社会の現状は、ロイヤル・ソサエティー創立当時の17世紀のイギリスとあまり変わらないお粗末だ。

この切所にあって、日本人は「他人様の言葉を盲信しない」という、17世紀の科学者たちの知的勇気を自分のものにしなければならない。

喚く前に、次の権威を求める前に、パニックする前に...自分の頭で考えてみろ、ということだ。

日本人における「知的勇気」の必要性は、次の二つの理由において特にあきらかだと思う。

第一には、今を生きる日本人にとって「既得権力・権威・権益との戦い」ということが不可避の命題であるということだ。

「就活」だの「仕事術」だの「○○力」だのと、いくら上手く立ちまわろうとしても、世界経済のグローバライゼーションによる日本の産業構造の変化と、高齢化社会という自然現象の前に、日本社会の変動とそれによる世代間/階級間の衝突は避けがたいだろう。

たしかに、池田さんが何度も指摘するように、現代日本社会における権力構造の中心は空虚かもしれない。しかし、ニュートンの「重力の法則」を応用することにより、目に見えない惑星の存在を知り得るように、たとえ権力の中心は空虚であろうとも、権力そのものの存在はその作用するところにより、その概要を知ることができる。権力は富を求め、そしてコントロールを指向する。東電からTPP論争、そして電波オークションに至る既得権益への妄執と、あたりまえのように稚拙な情報操作を試みまたそれに応じるマスメディアの堕落は、この権力の醜態とその知性の衰微の描線をあぶり出している。

こうした沈没してゆく日本の戦後エスタブリッシュメントの渦に呑まれないためにも、個々の日本人が自らの知性によって立つ必要性は自明だろう。

第二には、日本と日本経済が直面する世界的大競争時代がすでに始まっているということにある。

いま我が国は、人口と国土、そして国の勢いにおいてはるかに我々に優る隣人の擡頭という局面を迎えている。もちろんお互いにアジア、ひいては地球世界の一員であるという立場において、中國そして中華民族との共存共栄の未来を目指すことが、日本そして日本人の当然の方針であるべきだ。しかし推古朝以来の伝統である、我が国の独立と対等の関係、そしてひいては東アジアにおける平和を維持するためには、日本人は常に彼らの上のレベルを目指さねばならない宿命にある。

言論の自由。開かれた社会。世界トップレベルの科学技術とイノベーション。

それはアジアにおいて他が憧れ、また目指すところの地位を今後も継続して維持していかなければならないということだ。

その為には個々の日本人の知性の健全と、旺盛な知的好奇心が最低限の条件となる。

トップレベルの知性を、国内限定プチ官僚システムへと堕落した、既存アカデミアに閉じ込めておいては、これからはもうやってゆけないのだ。

ロイヤル・ソサエティーとて、最初からより崇高な目的意識を戴いて創立されたわけではない。

亡命先のフランスからイギリスに帰ったばかりのチャールズ2世が、帰国後数週間の内に、ソサエティーの創立を認可し、かつては不倶戴天の敵であった議会派の知識人を招聘し、復讐の矛を収め、「野に遺賢なからしむ」方針をとった背景には、内戦と政治不安により疲弊した国庫、そしてスッカラカンのまま目前にせまった対オランダ通商戦争を戦う為に貧弱な海軍を立て直さなくてはならない、という背に腹は代えられない事情があった。

今回、アゴラ研究所は、破綻した日本のエネルギー政策、科学よりも小市民的正義を重視し中世的衆愚政治社会への回帰を目指すマスメディア、そして自己保存のみを優先させ臆病と無策に落ち入った政治家たちにより生じた空白を埋めるべく発足されたと私は理解している。

願わくば、アゴラ研究所がその当初の目的を果たすのみならず、我が国における知的社会活動の再生と活性化への一助となることを期して、年頭の言祝ぎに代えさせていただく。