前回は、かなり大上段にかまえたエントリーを入れたので、今回は1年ちょっと前に私個人のプライベートのブログでとりあげた、気軽なテーマを修正・転載させていただく。
今年の大河ドラマは「平清盛」だそうだ。
清盛が、そのライバル源義朝をコテンパンにやっつけて、その覇権を樹立したのが平治の乱。
後世からの視点では、この後壇ノ浦まで続く源平の戦いの序章という観がある「平治の乱」だが、当時の人にとってこの事件は、朝廷内の主導権争いが軍事クーデターとなった出来事であり、これが武士の擡頭につながる歴史の転換点としてとらえることができた人間は清盛その人だけだったかもしれない。
清盛の熊野参詣により生じた京都内の軍事バランスの欠如につけ込んだ後白河のかつての寵臣、権中納言・藤原信頼と、彼の「特攻隊長」であった源義朝は、1160年1月19日の深夜、後白河法皇の御所、三条殿を襲い、後白河の身柄を拘束する。
もともと中流貴族の出に過ぎなかった藤原信頼の朝廷における躍進の原因は、彼が幼年であったころ、後白河おきにいりの男色のお相手であったという、そのスジがお好きな一部女子にはたまらない(と思われる)伏線があるのだが、平治の乱にいたるころには後白河は切れ者、藤原信西を実務の面で頼りにしており、信頼はたちの悪い元愛人といった態で、つれなくなったかつての恋人・後白河に対立する二条天皇親政派に身を投じ、ついには軍事クーデターの挙に及んだのだから、衆道の恨みはおそろしい。
かつては枕を共にしたボーイフレンドに突然寝込みを襲われ、近臣を血祭りにあげられた上に(信西は自害、その首を晒される)、拉致・拘束された後白河の悲憤慷慨は思ってあまりある。
大河で後白河を演じる松田翔太くん、みせどころでしょう。
自分の留守中の変事におどろいた清盛は、いったんは本拠地である西国・九州への逃亡も考えるが、信頼派が清盛と平氏一党を敵視していなかったこともあり(清盛をライバル視していたのは源義朝で、信頼はじめ当時の貴族にとって武士は「飼い犬」ていどの認識だったと思われる。)、清盛は8日後の27日に京都、六波羅の自邸へ戻る。そこに近畿周辺の平家党の武士が参集しはじめ、もともと手元の兵力が少なく、地盤となる東国からの動員もままならない源義朝はあせり始める。京都内の軍事バランスは清盛方に傾き始めた。
政治的にも、二条天皇親政派の目の上のたんこぶであった後白河の懐刀、信西を排除することに成功したことにより、親政派はその目的を達成したわけで、突然政権を手中にしてウカレあがった元愛人のお稚児さん信頼に協力しつづける理由がなくなってしまった。
こうした状況下、やっぱりどこかユルイところがあった信頼くんは、うっかり監禁中の後白河の脱出をゆるしてしまう。2月4日、後白河は監禁先の仁和寺から脱出し、清盛の庇護を要請する。翌朝、これを聞きつけた二条天皇も、勝ち馬に乗り換えるなら今だとばかり、六波羅の清盛の下に奔る。
手持ちのコマにしたはずの法皇も、神輿に担ぎ上げたはずの天皇をも失って、信頼くんは源義朝に「日本一の不覚人」と罵倒されたという。
この日本史上まれに見る「おばかさん」信頼を誰が演じるのか、いろいろとネットを調べてみたのだが、残念ながら分からない。もしかしたら皇室史の恥部として、またはお茶の間エンタティメントにふさわしからぬ存在として大河ドラマから抹殺されてしまったのかもしれない。(個人的には香川照之丈あたりに「濃ゆ~く」演じてほしいところだが。)
後白河と二条という、玉二つを手中に収めた清盛は、満を持して内裏に居座るクーデター勢力の排除に乗り出す。翌5日早朝、清盛は嫡男・重盛と弟・頼盛の軍勢を内裏に差し向け、一戦かまえた後、義朝以下の兵士を自邸のある六波羅までおびき出す作戦を授ける。
推定兵力、清盛方、約3,000騎。 信頼・義朝方、約800騎。
この日、折からの残雪を踏みしだきながら、合戦に臨んだ各武将の出で立ちを、平治物語は色彩豊かに描き出す。
たとえば清盛はこうだ。
「紺の直垂に、黒糸縅の鎧、黒塗りの太刀、黒い羽ではいだ矢、塗籠藤の弓、黒い馬に黒鞍置かせて、上から下まで、何から何まで、黒ずくめの装束であったと平治物語に出ているが、これは事実であったようだ。愚管抄にも、『大将軍清盛は皆黒に装束きて、黒き馬にのりて』とある。なかなか凝ったお洒落である。」(海音寺潮五郎「武将列伝」より「悪源太義平」)
平清盛に続く、「平治物語」の隠れた主役といえば、清盛のトイメンであった源義朝ではなく、義朝の長男、鎌倉悪源太義平。
15歳で坂東における源氏同士の内ゲバ、武蔵大蔵の戦いで伯父の義賢を討ち殺し、平治の乱の当時は数え19歳の若さで熊谷直実、三浦義澄等など後世までその名が轟く坂東猛者16騎を率いて、清盛の嫡男、重盛率いる平氏方500騎を蹴散らした(といわれる)、快男児だ。
義平の当日の出で立ちは、
「練色(薄黄色)の魚綾(織物の名)の直垂に、八竜とて胸板に竜の金物を八つ打ちつけた源氏重代の鎧を着、高角の胄をかぶり、河内ノ有成が鍛えた石切という名刀を佩き(この太刀は後に後白河院の愛刀となった)、鷲の羽の矢を負い、重藤の弓を持ち、鹿毛なる馬に鏡鞍(前輪と後輪に金属を巻いて鏡のように磨き上げた鞍)をおいて
またがっているのであった。」(同上)
とある。
「練色」の着物とはこんな感じ。
矢に用いる鷲の羽とはこんなもの。
この義平と「ベン・ハー」の戦車競争よろしく、左近の桜、右近の橘の間を七・八回追いかけ回すことになっている清盛の嫡男、重盛は、
「この時、重盛は二十三、赤地錦の直垂に櫨匂いの鎧を着、竜がしらの兜をかぶり、平家重代の小烏丸の太刀を佩き、重藤の弓を持って黄桃花毛の馬に柳桜を青貝で摺った鞍をおかせてまたがり...」(同上)
とある。
「櫨匂い」、「櫨匂縅」の兜とは、こんな感じらしい。
「黄桃花毛の馬」というのはイメージしづらいですが、一応これが黄桃花。
乱暴を承知で言わさせていただければ、シャープな清盛はドルチェ&ガッバーナ。カラフルに中間色をあしらった重盛はヴェルサーチェ。両人ともやはり西国に本拠を置き、大陸との通商により富裕となった平氏の一員として都会的に洗練された色彩感覚が感じられる。
対する義平はアースカラー基調で、あえて申せば、ティンバーランド?パタゴニア?やはり坂東の開拓民の棟梁としての源家のお家柄を反映した色彩感覚。義平自身は、京都で政争に明け暮れる父義朝とはちがい、生母の実家である三浦氏によって育てられたというから、相模灘の潮水にもまれて育った自然児だったのだろう。
自然児ということで最後に一言。NHKの番組サイトを見る限り、今回の清盛も以前の「新・平家物語」同様、吉川英治の手による、「出生の秘密を乗り越え、逆境に耐え大成する野性味あふれた自然児...」という色付けで描き出されるのだろうが、真実は清盛が世に出る頃、平氏は当時の日本における押しも押されぬ一大富豪一族であり、清盛自身12歳にして当時の武家の子息としては破格の従五位下左兵衛佐に叙任されることにより、世に出ているわけで、松山ケンイチくんがワイルドに演じる(であろう) 清盛像にはかなり史実と異なる脚色が入っている。もっとも殿上で平安貴族から「伊勢の瓶子(平氏)は素瓶(すが目=斜視)なり」とバカにされ、カネはあるがステータスがない武家棟梁の悲哀を肩に背負った清盛のパパ、忠盛を演じる中井貴一のオトナの演技はどうしても観てみたい。