台湾総統選が東アジア安全保障にもたらす影響とは

原 悟克

2012年は、アメリカ、ロシア、フランス、韓国、メキシコなど世界各国でその政治のトップを決する選挙が相次ぐ。また、中国でも国家主席の交代が予定されているうえに、偶然にも昨年末に金正日氏死去による正恩氏への政権移行という要素まで入り込んできた。世界が政治的に激動の様相を呈する中、その口火を切る格好で1月14日、台湾(中華民国)の大統領にあたる総統選挙がおこなわれる。中国融和政策をとる国民党・馬英九候補(現職)と台湾独立派の民進党・蔡英文候補の事実上一騎討ちとなるこの選挙、争点は非常に多岐にわたり、事前の世論調査の結果も拮抗している。台湾では各メディアがいずれかの党の立場に偏っている場合が多く、中立的な情報が取得しにくいことも激戦ムードを煽る一因となっているようだ。台湾の公職選挙法では、1月4日以降は世論調査の結果公表が禁止されているため、最終の公表となる3日の各紙を見ると、馬氏優勢を伝えるものが多いようだ。この総統選の結果は世界、そしてわが国そして東アジアにどのような影響を与えるのだろうか。


馬英九総統による国民党政権は、圧倒的な国民の支持を得、2008年に8年ぶりに与党の座を奪還して以来、「一つの中国」を中台両国が確認したとされる92年コンセンサスをベースとした「統一せず、独立せず、武力行使せず」の「三ノー」政策により対中経済交流を強力に推し進めると同時に、国内では「633公約」(経済成長年率6%、国民所得3万米ドル、失業率3%以下)を実現すべく政策を実行するはず…だったが、633公約については、馬総統就任から100日もしないうちに「2016年までの目標」と、事実上の先送りを宣言するなど、当初から台湾国民を失望させた。また、2009年台風被害への対応の不手際やアメリカ産牛肉輸入解禁などによってもさらなる失望が広がり、2009年の地方選では2県長が落選し、2010年の立法委員(日本の国会議員にあたる)補欠選挙では、3議席すべてを失うなど、以前の勢いを失いながらの今回の総統選となっている。

一方で蔡英文党首率いる民主進歩党は、1986年の結党以来、独立した「台湾共和国」の建設を掲げてはいるが、陳水扁総統の下で初めて政権を担当した2000年から2008年には、必ずしも急進的な台湾独立や、党是であった脱原発を推し進められた訳ではなく、徐々に中道寄りの政策を採るようになった。そのためか今回の総統選では、政策を台湾独立ではなく中国との関係の「見直し」と修正するとともに、むしろ、国内に広がる格差の是正や、国内農業・中小企業をはじめとした庶民の声を代表する戦術を採っている。

さて、実際に台湾で住民の声を聞いてみると、中小企業経営者や、大企業のマネージャークラス以上の人々は、かなり冷ややかに総統選を見ている様子だ。彼らの多くは、2008年から通郵・通商・通航の「三通」が開始されヒト・モノ・カネが中台間を直接かつ自由に行き来し、2010年には中台間のFTAであるECFA(両岸経済協力枠組協議)が締結されるなど、経済的にはもはや切っても切れない両岸関係は、たとえ民進党の蔡氏が総統に選出されたとしても急速に縮小、ましてや遮断できるものではない、との見方をしているのだ(ちなみに筆者も、この意見に同意する立場)。日本のメディアなどで「白熱する総統選」などと報じられている「選挙運動」は、一部の党関係者や低所得層が中心であることは、先進国共通の現象ともいえよう。また、2004年の総統選で陳水扁候補が銃撃されたことから候補者襲撃の警戒が高まったり、大規模な買票の噂があったり、選挙の国際監視団「台湾公正選挙国際委員会(ICFET)」が発足したりと、日本にはない事情による「白熱」も同時に加味されていることには、少々の理解が必要だ。

しかし、それでもなお中国共産党は国民党支持に有形無形の圧力をかけなければならないのだろうか。一つの理由は、経済的な独立はともかく、政治的な独立を認めることにより、チベット、モンゴル、ウィグル等が我も我もと独立に向かい蜂起する可能性への懸念である。そしてもう一つの理由は、平和裡に台湾との融合を進めることが、中国の総体的な利益に適うからであろう。中国だけではなく北朝鮮であっても、実効支配をしていない国や地域への武力行使の際には、意外にも彼らは国際社会に対するエクスキューズを重視する。しかし、現在または近い将来、台湾に武力行使して国際社会から避難されないほどに、中国側が利用できるエクスキューズが高まるとは考えにくい。元アメリカ合衆国沖縄総領事のケビン・メア氏が著書「決断できない日本」で述べるとおり、「地政学的に言うと、日本列島は太平洋への膨張の出口を求めている中国に蓋をする防波堤となってユーラシア大陸に対峙(中略)。中国にとっては日本列島が太平洋への進出を遮る壁として見えている」

確かに、上図のように中国から太平洋を見ると、日本、台湾、フィリピンにより、中国の太平洋へのアクセスが完全なまでに遮断されている。その唯一の突破口は、現実的には台湾しかないだろう。平和裡に中台の政治的に融合、たとえば香港のように中国の特別行政区として扱われることになれば、さすがにアメリカや国際社会も口出しが出来ない。そして、これにより東アジアにおける安全保障をめぐる構図は一変するだろう。アメリカは再度この地域の安全保障を見直す必要に迫られるが、現在の財政からは軍事費の調達は困難を極めるだろう。しかしながら、アメリカは中国との摩擦を恐れ、事実上国民党を支持せざるを得ないという、非常に微妙な立場にある。あくまでこれは馬総統が選出され、立法院選挙でも国民党が過半数議席を獲得したうえでの最悪のシナリオではあるが、今回の総統選が、わが国としても決して他人事ではないことを認識しておくべきだろう。

蛇足ではあるが、馬英九総統は反日思想を持つことで知られている。台湾にとって日本は輸出入額全体から見た貿易相手国として第2位の約500億米ドルに達する重要国であるだけでなく、東日本大震災に対する義捐金が象徴するように、台湾人には民間レベルでの親日家が多く、反日的な発言は不人気であり政治家として致命傷にもなりかねないので、総統候補になってからは態度を変えているが、尖閣諸島問題や南京大虐殺などについては、学生時代から非常に日本に批判的な人物であることを付記しておく。

(原 悟克/アゴラ執筆メンバー)