「日本的経営」という錯覚

池田 信夫

アゴラ読書塾のテーマは「日本人とは何か」。そのテキストとして「日本的経営」の本をいろいろ読み直してみたが、かつて世界中にあふれた「日本的経営バンザイ」のビジネス本は、今となってはとても読むに堪えない。本書は、その錯覚の系譜ともいうべきダイジェストだ。

日本的経営の特徴は、1958年に書かれたアベグレンの『日本の経営』に尽きている。ここで「三種の神器」とされた終身雇用・年功序列・企業内組合は、60年代までは「封建遺制」として批判の的だった。


しかし70年代の石油危機で、日本車がアメリカで売れ始めたころから評価が逆転し、アメリカの「短期的経営」より日本の「長期的経営」のほうがすぐれている、という話になった。それを最初にかつぎ回ったのは、1979年の『ジャパン・アズ・ナンバーワン』などを書いたアメリカ人で、世界の企業がケイレツやカイゼンなどという言葉を使った。それを輸入して、日本でもバンザイ本が続々と出たのだ。

これを「理論化」したのが、1987年の『人本主義企業』である。著者は欧米の資本主義は物的資本を中心にしているが、日本の企業は人間を中心にする「人本主義」だというのだが、これは資本主義の意味を取り違えている。ハートが指摘するように、資本主義とは資本を支配する制度ではなく、資本の所有権を梃子にして間接的に労働者を支配する制度なのだ。

これに対して日本企業は、長期的関係で労働者を企業に閉じ込めて支配する。どちらも労働者を実質的な奴隷にする点では同じだが、資本主義には明示的な契約にもとづく所有権という普遍的な制度があるのに対して、長期的関係は暗黙の契約なのでグローバル時代には弱い。その梃子になっているのは特定の企業内のfirm-specific skillなので、他の国では通じない。

バンザイ本の集大成が、『知識創造企業』だろう。これは日本企業で共有される「暗黙知」が成長の秘訣だという話だが、彼らのいう暗黙知はポランニーの概念を誤解したもので、その中身は「職人芸」や「経験主義」の言い換えにすぎない。そういう場当たり的な意思決定がバブル崩壊で行き詰まった1996年に出たこの本は、日本的経営の「白鳥の歌」である。

そして今、注目を浴びているのは中国の国家資本主義である。さすがにEconomist誌は、この種の物語は「成長期の経済ではすべて美しく見える」錯覚だと指摘している。図のように、日本の高度成長は「奇蹟」でも「日本的経営の賜物」でもなく、GDPが英米にキャッチアップして新古典派成長理論でいう定常状態(成長率=人口増加率+生産性上昇率)に到達する過程だったと考えるのが一番シンプルな説明だ。


1870~2003年の日・英・米の1人あたりGDPの推移(ドル)ワイルより

高度成長は戦争で破壊された生産設備の復旧(半減したGDPが6年で戦前の水準に戻った)と、人口の急増(戦後25年で1.5倍)と都市への集中、そしてアメリカからの技術移転で説明でき、「日本的」に説明すべき特殊性はほとんどない。むしろ日本が普通の市場経済になったことが成功の秘訣だろう。

だから今後の日本経済が衰退することも、労働人口が毎年1%ずつ減ってゆくことから必然的に導かれる。これに対応するために有効な戦略は、企業も労働者も、成長したければ日本から脱出することしかないが、成長は人生の最終目的ではない。フローの所得は減っても、のんびり生きたい人にとっては日本は住みよいと思う。

追記:ワイルのデータは1人あたり成長率なので、定常状態では生産性上昇率に等しいが、これは労働人口/全人口の比率を一定と仮定しているので、この比率が増えた高度成長期の値は過大に出ている。逆に今後は、1人あたり成長率=生産性上昇率-労働人口率の減少率なので、高齢化は1人あたり成長率にも影響する。