噛み合わない議論 - 『低線量被曝のモラル』

池田 信夫

低線量被曝のモラル
著者:一ノ瀬 正樹
販売元:河出書房新社
(2012-02-21)
販売元:Amazon.co.jp
★☆☆☆☆


低線量被曝の問題は、非常に重要である。現在の国の「年間1mSv」という線量基準には科学的な根拠がなく、このままでは過剰な避難や除染で数兆円の国費が浪費される。本書はこの問題について東大の理系と文系の教官が討論したものだが、残念ながら話が噛み合っていない。

医学部の中川恵一氏と児玉龍彦氏の論文は、科学的な事実関係についての議論なので、まだ理解できる。中川氏の議論は学界のコンセンサスに近いが、児玉氏の議論には疑問が多い。「チェルノブイリで膀胱癌が増えた」という話は、放射線医学総合研究所が「事実誤認だ」と指摘している。甲状腺の7q11遺伝子についての断定的な議論にも、疑問が寄せられている。

ところが宗教学者である島薗進氏の論文は、低線量被曝について「調査資料がなくてわからない」という事実誤認から出発し、ICRP勧告をECRRなどの反核団体のブログ記事を根拠にして批判する、およそ学問的にはナンセンスというしかないものだ。文学部には、論文の査読という手続きがないのだろうか。

その他の人々の「情報媒体論」やら「生命倫理」やらの議論については、お疲れ様というしかない。客観的事実について議論を尽くさないで「語り」や「モラル」を論じても、話は空転するばかりだ。最後の島薗氏と児玉氏などの座談会に至っては、「原子力村の言論統制」を糾弾する反原発運動のシュプレヒコールに近い。

率直にいって、こういう混乱した議論は、討論会としては意味があるが、書物として世に問うべきものではない。中川氏の医学的な議論だけは読む価値があるが、これも 『被ばくと発がんの真実』とほぼ同じ内容である。