AKB48の前田敦子が「卒業」するという。この卒業という現象は、宗教学の立場からすると非常に興味深い。というのも、私が宗教の一つの根本的な性格として考えてきた「通過儀礼」、もしくは「イニシエーション」という観点からこれを分析できるからだ。
女性のと言うよりも、少女のと言った方がいいのかもしれないが、女性アイドルグループには、この卒業という行為がつきものである。それに対して、男性アイドルグループには基本的にそれがない。
男性アイドルグループと言えば、その代表はジャニーズのSMAPであり、TOKIOであり、今人気絶頂の嵐である。SMAPでは、かつてメンバーが一人脱退するということがあったが、それは卒業という形ではとらえられなかった。
SMAPの結成は、1988年のことで、すでにその歴史は24年に及んでいる。メンバーの年齢も皆30代後半で、中居と木村の場合には、今年40歳になる。それぞれのメンバーは、一本立ちできる実力を備えているにもかかわらず、グループを卒業していくことはない。それは、他の男性アイドルグループにも当てはまる。
男性アイドルグループでは、解散ということも考えにくい。グループとしてある程度の歴史を重ね、一人一人のメンバーが個人として活躍できるようになっていれば、あえて解散の必要もない。むしろ、グループが維持されていれば、テレビのレギュラー番組も続き、グループの基盤は安定する。
女性アイドルグループは、そもそも、それほどの永続性をもたない。一時期は高い人気を誇っても、どこかの時点で解散し、消滅していく。
ただ、その例外になりつつあるのがモーニング娘で、すでにその歴史は15年になろうとしている。それも、一定期間所属していたメンバーの卒業と、それを補う形での新加入がくり返されてきているからだ。あるいは、AKB48の場合には、このモーニング娘型の歴史をたどることになるのかもしれない。これも、男性アイドルグループにはない仕組みである。
卒業ということが一般化することで、それは予定されたものとなってきた。前田は、自分で卒業を決めたと言うが、メンバーには自分はいつかグループを卒業しなければならないという意識が存在することだろう。それは、ファンも感じている。
卒業という行為が常態化することで、そのグループのメンバーである期間は限定される。これは、通過儀礼の本質的な特徴である。通過儀礼は、ある状態から次の別の状態へ変化していくために経ていく儀式のことで、そのあいだに試練を課されることになる。
AKB48では、その試練として、「総選挙」という仕組みが導入された。それによって、グループのメンバーのなかでどの程度の人気なのかが明らかになった。前田は、その総選挙で1位を2度獲得した。しかも、1度はその座を明け渡し、それを奪還するというドラマも演じた。
前田は、この経験を通して、試練を克服した。それは、通過儀礼を経たことを意味し、その点で、卒業は必然的なことである。これからも1位の座を守り抜くという道もないわけではないが、そうなると他のメンバーから試練の機会を奪うことにもなりかねない。
女性アイドルグループでは、卒業は「制度化」されている。卒業と新加入をくり返すことが難しい、より人数の少ないグループでは、そのかわりに解散が制度化されているとも言える。
卒業と解散が制度化されることで、そこには、「はかなさ」の感覚が生まれる。ある一人のアイドルがそのグループのなかで輝きを放っているのは一時期のことで、それはいつか必ず終わる。そのはかなさの感覚は、日本人の伝統的な美意識にもかなっている。無常感にも通じていくと言えるだろう。
グループを卒業すれば、あるいはグループが解散してしまえば、もうこのはかなさの感覚はなくなる。卒業して、それでも芸能界で生きていくなら、独り立ちし、大人の女優なり、歌手なりとして活躍していくしかない。ある意味、より過酷な道を歩むことになるわけで、はかなさとは無縁である。
逆に、日本人がはかなさの感覚を愛するがゆえに、今日のような女性アイドルグループのあり方が生み出されてきたとも言えよう。
あるいは、今問題はファンの側にあるのかもしれない。昔、アイドルに熱中するのは一時期のことで、少し年齢が上になれば、ファンを辞めていった。
ところが、アイドルの方に卒業する仕組みが作られるようになったことで、ファンが卒業する機会を失いかねなくなってきた。卒業したメンバーの応援を続けるか、グループのなかに新たなアイドルを見出していくことで、ファンであり続ける、あるいはあり続けられるようになってきたからだ。ファンの「おたく化」である。
前田敦子を支持してきたファンは、本来はここで卒業すべきなのかもしれない。にもかかわらず、そうなりそうにないところに、今の日本の社会の大きな問題があるように思われる。
島田 裕巳
宗教学者、文筆家
島田裕巳の「経堂日記」