私にとってドローイングは、確実な形態をふまえているとは思えないが、建築のある一断面やもののフォルムをつかまえるための生々しい営為であり、矛盾に充ちた線の集合体といえる。またそれ自身、建築の原初体験でもあり、建築への仕組みの連続でもある。
※『ITAMI 建築と絵画』(求龍堂):「私のドローイング」より引用
自らを「最後の手の建築家」と呼ぶのは、伊達ではない。無骨で力強いタッチで描かれ生命力を帯びたスケッチ、ドローイングは、いわゆる設計図と言われるものの概念から大きく逸脱している。それはまるで、木、水、土、石などの自然素材が持つ美しさと機能性なくして、空間を切り出し建築物として具現化することはできないと主張するかのようだ。そして、この手描きへのこだわりこそが、建築家であり芸術家でもある「伊丹潤」を希有な存在足らしめている。
現在開催中の「伊丹潤展 手の痕跡」では、そのことを再認識したように思う。「手の痕跡」というコンセプト、空間演出ともに、伊丹の意志、人となりがよく反映された展示だった。
ここから先は、個人的な話をしたい。というのも、今回展示を観にいくことは、追悼であり、回顧だったからだ。私にとって伊丹氏は、単にお気に入りの建築家という存在ではなく、直接的にも間接的にも大変お世話になった恩人でもある。
ちょうど10年前、私は建築の道を志す親友と韓国の済州島を訪れている。目的は、伊丹氏による一連のプロジェクトの一つ、ゴルフクラブに併設された「PODO HOTEL(ポド ホテル)」だった。リゾート地で優雅にラウンドする必然性のない大学生は招かれざる客だったが、伊丹氏の名前を告げ見学したい旨を伝えたところ、スタッフの方は快く承諾してくれた。
伊丹氏の作品は多数見てきたが、「PODO HOTEL」はとにかく衝撃的だった。そこには、これは間違いなく伊丹潤にしか生み出せないものだという実感、そして、この人の作品は最新作が最高傑作になるのだという予感があった。帰国後、私は興奮覚めやらぬまま評論まがいのものを書いた。今思えば、面識があったとはいえ無謀かつ傲慢な行為だったが、伊丹氏は何の実績もない私を評価し、韓国の建築雑誌に署名付きで載せてくれたのだ。(文末にて転載)
あるいは、このような個人的なことを書くのは適切ではないかもしれない。しかし、10年の歳月を経て、一級建築士となり事務所を構えるまでになった親友とともに「伊丹潤展 手の痕跡」に行き、改めてその作品に触れ、当時を振り返る中で、何らかの形で恩返しをしなければならないと強く思ったのである。
少しでも興味を惹かれた方は、ぜひ「伊丹潤展 手の痕跡」に足を運んでみてほしい。そして、もし韓国に行く予定があれば、済州島まで足を伸ばしていただければと思う。留保なく、伊丹氏の作品の力強さと温もりと、そこに「ある」ことの意味を感じられるはずだ。
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平屋造りの“葡萄” ~対話のある情景~
葡萄を象った「PODO HOTEL」、それは平屋であった。ホテルとは辞書的な意味においては西洋風宿泊施設であり、正確にはこの“葡萄”はホテルとは言えない。しかし、そこにこそ平屋であることの逆説的な意義が表れてくるのである。
この一房の“葡萄”の中心部には光を取り入れ、水を配給する核の部分があり、光は「内」に注ぎ込まれ、水は「外」へと注がれる。この「内と外」は建物の内側とそれ以外という機械的な区分ではない。その相互性は、その土地の土壌と“葡萄”との共生の具現であり、幹から切り落とされた不特定の房ではなく豊かに膨らみ実を結んだ房であることを示唆する。
また、枝分かれした先には幾十かの果実である客室及び突き抜けていく視点が散りばめられているが、そこには必然的な景色があり、素材がある。そこにはただ土があり、石があり、緑があり、空気の混じり合いがある。このような情景は無作為であり「対話」として捉えうるであろう。伊丹氏はこのような「無作為の作為=建築」を自然の中に融合させる表現能力を有すると言える。
このようにして“葡萄”は、ホテルと呼ばれることと矛盾する形態を取りながら閉塞から脱却し、寝泊りのみの空間ではない多義的な単位としての位置を確立する。また、このことは「ビルディング=縦に積まれたもの」というホテルの既成概念を覆すことをも示しうるであろう。無論、この「PODO HOTEL」は個人の住まい、別荘にはなりえないが、ゲストハウスの原型であるところのものを利用者に大いに与えるのである。
つまりそれは、そこに足をつけ、滞在するという純粋な行為であり、潜在的な「ゲスト」の感覚であり、個々人が後天的に身にまとった利用者としての空間認識といったものである。ここに、平屋であることのそして平屋にしか成しえない意義があり、ホテルをゲストハウス足らしめる伊丹氏の豊かな感性が息衝いている。そしてそれは、ひとつの建築物が“葡萄”をメタファーとして実を結び、対話的な空間へと移行してゆく情景を描き出すのである。
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※韓国『INTERIORS』 2002.5 P147に掲載された文章の原文です
青木 勇気
@totti81