最適な法制度とは

小幡 績

池田信夫氏のこの記事は、コモンローが常に優れている、という前提に立っているが、それは疑問だ。

法制度は、常に正しい制度があるのではなく、それぞれの環境、状況、事柄(イシュー)により異なる、というのが面白くないが、現実的な答えである。

日本の問題は、法制度を大局的な観点からデザインするデザイナーが不在であることであり、デザイナーの不在が一番の問題だということを明示的に意識していないことにある。


法制度が経済に大きな影響を与えているということを、アカデミックに実証し始めたのは、私の師匠のAndrei Shleiferだが、それは金融市場でもっとも顕著で、マクロ経済においても政府のパフォーマンスにおいても言えることがわかってきた。

これは大きな論点の変化であり、これだけで経済学が変わったとまで言えるが、一方、そのメカニズムについては、さまざまな議論がある。

なぜ法制度が経済パフォーマンスを変えるか。

その問いは当たり前のように思えるが、そのメカニズムが、法制度のある部分にあるのであれば、たとえば、所有権の確立、ということにあるのであれば、どの社会も、所有権をしっかり確立すればいいのである。現代においては、経済成長はほとんどの国で最優先されているから、法制度を改正すればよい。

金融市場に関して言えば、コモンロー(english law)諸国が圧倒的に発展していることになっているが、それならば、米国法なり、英国法を移植すればいいのである。実際、日本の商法は戦後、米国商法を、プロシア民法の上に接木したものになっている。

問題は、なぜそれが起きないか。法制度も、経済の発展もコンバージ(収束)しないのか。より優れている法制度があれば、どの国も同じ法制度を採用し、別のところで競争が起こるはずではないか。そして、法制度というものは内生性が高く、すぐに国会で変えられるのだ。

法制度がコンバージしない理由は、二つ考えられる。

法制度は、法律を変えてもコンバージしない、というのが第一の説。第二の説は、コンバージすべきでなく、その環境や状況にあった法制度にすべきであって、適正性は絶対的な優劣よりも相性、全体のシステムとしての整合性によるものである、という考え方である。

この池田氏の議論に対しては、この第二のポイントが指摘できるだろう。日本の中世(あるいは日本独自の近世も)においては、コモンロー的な、みんなで話し合って決める、という法制度が優れていたが、近代国家の確立のためには、civil lawが適合していた。その結果、日本は明治以降、驚異的な成長、成功を収めた。しかし、それが高度成長後、ふさわしくなくなってきた。それにもかかわらず、法システムの変更が行われていないのが問題だ、ということだ。

この変更のためには、システム変更が必要だというコンセンサスと、それを実現するにはデザイナーが必要で、それは政治的決断、という問題でなく、テクノクラートによる試行錯誤が必要だ、という認識であり、またそのデザイナーとなる能力、経験のある人材が必要だ、ということである。

現在の日本では、これらがすべて不足しているので、システム機能不全になっている、のである。

ただし、一方で、そうだからといって、システムを破壊すればいい、というものではない。適合性が低下したシステムであっても、システムが存在しないよりはましであるからである。

小泉も橋下も、システムをぶっ壊すというようなことを宣伝しているが、実際にはシステムには触らずパフォーマンスに終始した、という意味で、彼らを熱狂的に支持した自称インテリたちよりもはるかに、社会システムに関する理解が深いのである。

システムは壊すものではなく、デザインし、試行錯誤の中、有機的に育ってくるものなのである。

続きはまた次回に。