総務省は13日午前、有識者を交えて自らの事業の効果を検証する「行政事業レビュー」(府省版事業仕分け)を行ったが、対象2事業のうち、小・中学校の授業にタブレット型多機能携帯端末などを取り入れるフューチャースクール推進事業(実証実験)について、政策効果を疑問視する声が有識者から上がったので、「廃止」する事にした。総務省は、2012年度予算で情報端末費用などに約11億円を計上していたが、有識者は「端末などハード面の導入が先行し、肝心の教材内容が伴っていない」などと指摘した。
この様な成り行きに、この政策の推進に深く関与されてきた中村伊知哉先生等が憤懣やる方ないのはよく理解出来るが、私は、仕分け人の言っている事ももっともだと思った。この仕分け人は、「教育の電子化の必要性」を否定しているものではなく、「この様な事は、総務省が単独でやるような問題ではなく、文科省と一緒に、ソフトとハードを連携させるような形でやるべきだ」と言っているわけで、むしろ「一歩後退、二歩前身」の素地を作るものだと、前向きに評価したい。
私は、これまでも教育問題についてはよく語ってきた(総括的に語ったものとしては、2010年8月9日付の記事があるので、ご一読頂ける有難い)が、私が語ると、どうしてもIT分野の事に力が入りすぎる嫌いがあるので、いつも「教育問題の本質はもっと深いところにある。電子化なんかで安直に解決できるものではない」というお叱りを頂く。私とてそれはよく分かっているのだが、文科省が一向に「教育のグランドデザイン」に踏み込んでくれないので、ついつい「出来るところから経験を積み重ねていけばよい」と考えてしまうのだ。
小学校の低学年から、子供達がタブレットなどの電子端末を使いこなし、インターネットを駆使する訓練を受ける事は、何れにせよ必要だ。学問を究める為にも、有能な公務員や企業戦士になる為にも、この能力は今や必須のものになっているからだ。
「そういったものは所詮は道具に過ぎず、本当に必要なのは自分の頭で考えること。そして、他の人間と直に語り合う事だ」というのはその通りだが、だからと言って「道具」を使いこなす技術の習得を軽視してはならないと、私は思っている。精神論だけでは何も前に進まない。
小中学校教育について言うなら、一番大切なのは、先生と生徒の触れ合いだ。先生方には、生徒一人一人の心の中にまで入っていく事が求められている。しかし、現実には、先生方は多くの雑用を抱えており、とてもそんな時間がない様だ。だから、フューチャースクール推進政策が企図していた様に、もし小中学校にタブレット端末やLANが導入されるとすれば、真っ先に達成すべき事は、先生方の労力を節約し、先生方が一人一人の生徒と触れ合う時間を生み出す事だろう。
最も緊急を要し、且つ対象としても適切なのは、最近小学校にも導入されるようになった英語教育ではなかろうか? これこそネイティブの専門家が工夫を重ねて作ったビデオ教材をフルに活用し、先生は生徒と一緒に学んでいけばよいという状況を作るべきだ。これまで英語に全く縁がなかった先生方に、いきなり子供達に英語を教えることを求めるというのは全く無茶苦茶な話だし、奇妙の発音を教えられたら、子供達にとってもマイナスが大きい。
歴史や地理、社会、公民、道徳といった分野も、ビデオ教材に主役を任せ、教室ではそれをベースにした討論に集中すべきだ。ついでに、現在先生方の大きな負担になっているという種々の管理業務や雑務も、ITの導入によって何等かの効率化を図ってはどうか?
昔は、学校は先生方が自分の知識を生徒達に伝授する場だった。しかし、先生方自身が持っている知識は限られており、生徒達の知識欲に応えるには不十分なケースも頻繁にあるだろう。その一方で、ウェブ上には、あらゆる最高度の知識が満ち溢れている。しかも、グラフィックや映像が、楽しく分かり易い形でそれを伝授してくれる。先生方がこれをフルに利用しない手はない。先生方の能力は、知識の伝授ではなく、生徒達の興味や疑問を引き出す事、そして、得られた知識を正確に解釈して利用する能力や、それをベースに討論する能力を高める事にこそ使われるべきだ。
因みに、これは大学教育でも同じだと思う。日本の大学の教員は、「自ら研究を行い、その成果を学生達とシェアする」のが仕事なのか、それとも、「学生達が知識や能力を効率的に身につけていくのを助ける」のが仕事なのか、よく分からない。外国の場合は、「研究を行う職員」と「教育を行う職員」を明確に分けているケースが多いが、日本の場合は極めて曖昧だ。しかし、授業料を払っている学生側は、明らかに後者を期待している筈なのだから、大学側はその事をもう少し意識した方がよい。
さて、話を小中学教育に戻したい。
相当以前の映画だが、「豚のいる教室」という映画を見て、私は強い感銘を受けた。決して「熱血先生」というタイプではない若い先生が、クラスで子豚を飼うことを提案する。色々な問題を起こしながらも、子豚は子供達のよき友として成長していく。しかし、やがて子供達に卒業の時が迫る。子供達が卒業した後、飼っていた豚をどうすればよいのか? とても飼育は無理だと思われる低学年のクラスに任せるか、やむなく食肉センターに送るか? 意見は真っ二つに分かれ、賛否同数となった為に、自ら決断を下さなければならなくなった先生は、食肉センターに送る案に一票を投じる。
食肉センターに送るのは勿論「可哀想」だ。しかし、彼等ではとても飼育は出来ないと知りながら、低学年のクラスに任せて自分達だけが一時的に罪の意識から逃れるのは「無責任」だ。それに、自分が飼っていた豚をソーセージするのは可哀想だと言いながら、みんな平気で他の豚のソーセージを食べているのは矛盾している。
気持だけでは何も解決できない現実、何がよい事で何が悪い事かを簡単には判断できない状況に追い込まれた子供達は、真剣に悩み、真剣に議論する。後で聞いた事だが、出演した子供達は、しばらくの間実際に子豚を飼い、この難問に対する答えを自分の頭で考え、本気で議論したという。成る程、映画での子供達の議論には、とても脚本に従って演じているとは思えないような現実的な迫力があった。
全ての子供達が、小学生時代にこの様な体験をする事ができたら、成長した彼等は、必ずや日本という成熟した民主主義社会の良き一員になっていくだろう。視点一つで異なってくる多様な価値観の交錯を正確に分析する事を忌避し、全ての物事についていとも簡単にレッテル付けをして、自分達と異なった考えを持つ者を糾弾する。そんな人間ばかりが目立つ現在の刺々しい社会は、少なからず改善されるだろう。
しかし、今の日本の小中学校の中に、この様なことができる先生は何人いるだろうか? いや、そういう気持を持った先生方がいたとしても、現実にそういう事が出来る環境は殆ど整っていないのではないだろうか? それならば、多くの子供達に、この映画に出てきた子供達と同じ様に考え、同じ様に議論する場を提供する事は全く不可能なのだろうか?
これは一つの例に過ぎない。題材は沢山ある。「苛め」に関連したストーリーでも良いし、歴史ドラマをベースにしたものもあってよいだろう。場合によっては、子供達が好きなSF仕立てのものがあってもよい。
受験勉強を中心に全ての事をやってきた現代の若者達は、記憶力や定型的な問題解決手法を使って、あらかじめ用意されている正解をすばやく見つけ出す事には秀でているだろう。しかし、白紙の状態から自分の頭で考え、自分で構築した論理体系を使って、他の人の答とは異なっているかもしれない「自分自身の答」を見出すことは、恐らく苦手なのではあるまいか?
しかし、こんな事では、世界を舞台にした熾烈な競争にも勝てないし、みんなにとって公平な(従って多くの人達の支持を受け易い)「良い集団(社会)」を、自らの手で作り出していくのも難しいだろう。
一時期「ゆとり教育」というものが実行され、最近はそれがほぼ全面的に否定された。私自身も「ゆとり教育」というものを苦々しく感じていた一人だが、その理由は、他の人達とは若干異なるかもしれない。私の場合は、これが「何の為のゆとりか」という根源的な問いに対する回答がないままに実行された政策だったからだ。
「本来は順序が逆でなければならない」と、私はずっと思ってきていた。算数や国語といった「重要な基礎訓練」は、手抜きなくきちんとやらなければならない。だから、カリキュラムの相当部分はこれで埋められてしまってもよい。何事によらず、「厳しい競争をする」「鍛えられる」という事を体験しなかった子供達は、将来辛い思いをする事になると思うからだ。
しかし、問題は「課外」の時間をどのように過ごさせるかにある。今は、それが「受験勉強(塾)」か「自由放任」かの二者択一になっている様に思える。課外の「受験勉強」を不要にする一方で、子供達それぞれの興味の対象に応じて、綿密に工夫された「課外学習」を提供する体制が整えば、ここに「自由放任」に戸惑っている子供達も吸収し、将来の若者達を全体として望ましい方向へと導いていく事が出来るような気がする。
そして、ITをフルに活用すれば、先生方の負担を増やすことなく、この様な質の高い「課外学習」を充実する事が出来る筈だと、私は信じてやまない。