だから彼のモデルとしては、明治維新より一向一揆のほうがふさわしいのではないか。その中心となったのが、上の図(想像図)の石山本願寺である。これは現在の大阪城の場所にあった浄土真宗(一向宗)の本山で、本願寺を中心に数十万人の集まる自治都市(寺内町)が形成されていた。
これに対して1570年、織田信長は総攻撃を行なったが、本願寺は10年にわたって戦った。当時すでに全国最大の武装集団だった信長に対してこれほど長期の戦いができたのは、それが単なる寺ではなく、まわりに堀をめぐらして城壁を築いた都市国家だったからである。闘ったのは武装した僧と民衆だが、彼らが同盟を結んだ大名も全国から支援に集まった。軍勢は信長の1万人に対して、本願寺は1万5000人と対等だった。
丸山眞男は一向一揆を高く評価し、それは日本人のローカルな「古層」を超える普遍的な価値に依拠して民衆が結束した、西洋の宗教改革にも比すべき政治運動だったとしている。身分や財産の違いを超えて阿弥陀如来への信仰のみによって救われると説き、自分の運命は「絶対他力」によって決定されると教える親鸞の思想は、カルヴァンの予定説に似ている面がある。
一揆というと江戸時代の百姓一揆を連想する人が多いと思うが、実は石山合戦のころには「一向一揆」という言葉は使われていなかった。その主体も農民ではなく、全国から集まってきた漁師、商人、職人などの非定住民だった。本願寺の戦力を支えたのは、こうしたノマドの経済力だったのだ。特に一向宗を強く信仰したのは、動物を殺して生活する被差別民だった。殺生を禁じる仏教においては、彼らは穢れた存在だったが、親鸞は彼らのような「悪人」こそ最初に往生を遂げると説いたからだ。
だから石山合戦は日本史上最大の民衆反乱であり、100年続いた加賀の一向一揆とともに、日本でピューリタン革命のような民衆革命が起こる可能性があったのだが、信長がそれを弾圧した――と戦後のマルクス主義史学は評価してきたが、神田千里『一向一揆と石山合戦』などの最近の実証研究は、こうしたロマンティックな見方を否定している。
本願寺は寺領という荘園の領主だったが、「不輸・不入の権」をもっており、全国統一をめざす信長にとっては、他の戦国大名と同じ敵だった。もちろん本願寺の求心力は武力ではなく信仰だが、当時はまだ武士と民衆は明確に分化していなかった。一向宗の最大の戦力となったのは、「仏敵」との戦いで死んだ者は極楽浄土に行けると信じる強い信仰だった。
だが日本では、ノマドは決して多数派にはなれない。石山本願寺も信長に敗れて焼失し、豊臣秀吉は一向宗を支配下に置き、徳川幕府は宗門改めによって仏教を国家権力に組み込んだ。しかし今、グローバル化の中で日本人がノマド化しているとすれば、「21世紀の一向一揆」に勝算はあるかも知れない。大阪が先頭を切って都市国家として独立し、霞ヶ関に代表される主権国家というレガシーと戦ってはどうだろうか。