官僚は政治家である - 『財務省』

池田 信夫

財務省 (新潮新書)
著者:榊原 英資
販売元:新潮社
(2012-06-15)
★★★☆☆


消費税の増税をめぐって、「財務省のマインドコントロール」だといった陰謀論がにぎやかだ。もちろん財務省が予算編成権をもつ「最強の官庁」であることは間違いないが、彼らはそれを超えて財務省が陰謀をめぐらし、政治家を操作していると主張する。そんなに自由に政治をあやつれるなら、大宝律令以来の「大蔵省」という名称を剥奪され、たった5%の増税に15年もかかったのはどういうわけだろうか。

著者は著名な元財務官だが、財務官僚が「悪役」にされるのは昔からで、それはしかたないという。予算編成は政治のコアであり、それを行なう財務官僚は「政治家」である。さらにいえば、日本の法律の80%以上は内閣提出法案なのだから、三権分立などというのは建て前にすぎない。日本の官僚は西洋的な「公僕」ではなく、立法から司法まで行なう政治家なのだ。

では国会議員は何をしているのか。彼らは立法するのではなく、それに注文をつけるロビイストのようなものだ、と著者はいう。これは実態の記述としては正しいが、単なるロビイストを選挙で選んでいる有権者はいい面の皮だ。これは幕府が天皇をまつり上げる日本の伝統かもしれないが、最近ではみこしが自分で動いていると勘違いして「政治主導」などというものだから、官僚がかつぐのをやめると政権がこけてしまう。

このように官僚が政治色をもつのは当然で、アメリカでは政権が交代すると数千人の幹部が政治任用される。ヨーロッパでも、それほど多くないが幹部は政治任用が普通で、逆に官僚が政治家になる比率も高い。日本の特徴は官僚の「政治的中立」が原則になっていることで、これが官僚機構の柔軟性を失わせている。職権を濫用して政治活動を行なうのは禁止すべきだが、官僚の仕事は政治的に中立ではありえない。

霞ヶ関は、皇帝が官僚を科挙で選び、彼らが皇帝の代理人として政治を行なう儒教的な官僚機構なのだ。そこには議会は存在しないので、山県有朋が政治任用を廃止したのは当然だった。それ以来、日本の政治家はロビイストでしかなく、官僚も政治家を信用しないからまともな政治家が育たないという悪循環が続いてきた。

著者はこうした現状を認めた上で、財務省が悪役として財政を仕切るのはしかたないと考えているようだが、本当にこれでいいのだろうか。官僚の実務能力が高いことは事実だが、いま日本が直面しているのは実務的な問題ではなく、グローバル化や高齢化に対応して「国のかたち」をどう変えるかという大きな意思決定である。それを行なう権限は国会にしかないのだから、政治任用を増やして内閣の権限を強めるなど、「普通の民主政治」に近づける努力が必要なのではないか。