田中眞紀子文部科学大臣が、11月2日、秋田公立美術大など3大学の開設を認可しないと表明しました。ご存知の通り大騒ぎになりましたが、6日になって「新しい仕組みを立ち上げ、新しい基準で改めて判断する」とトーンが変わり、さらに7日午後、「まだ不認可の処分はしていない。世間は誤解している」と迷走を重ね、7日夕方になって、一転して「認可する」ことに落ち着いたようです。不認可でゴリ押しすれば行政事件訴訟法に基づく義務付け訴訟という手段も考えられたところですがまた、その可能性は乏しくなったので、訴訟についての検討は措き、今回のケースによる教訓を考えてみたいと思います。
まず、今回の措置が違法であることについて。
田中大臣の不認可方針は、設置すべきだとする大学設置・学校法人審議会(設置審)の建議を覆して表明されました。設置申請に対する認可・不認可は大臣の権限ではありますが、それは、大臣が個人的な考えで勝手に決めてよいことを意味しません。学校教育法は、大学設置認可に関する判断について、1. 「大学設置基準」という一般的な規範に基づき(同法3条)、2. 設置審に諮問した上で行うと決めています(同法95条、同法施行令43条)。「諮問せよ」と法律が決めているのは、大臣が自分だけの個人的な知識経験で判断してはならない、という趣旨に取るほかありません。それも、大臣が自分のスタッフに個人的に相談するのもダメで、「審議会」という形に組織されたスタッフに相談せよ、と決めているわけです。今回は何の相談もなく審議会の結論を覆したというのですから、この義務に違反します。即ち、違法です。
田中大臣は、「(認可が決まった段階で)既に建物が出来ているのはおかしい」とも発言したようです(読売の報道による)。しかし、設置申請に添付すべき書類には「校地校舎等の図面」が含まれていて(大学の設置等の認可の申請及び届出に係る手続等に関する規則(平成18年文部科学省令12号)2条1項2号)、きちんと建物が完成していることが前提になっています(大屋雄裕さんのブログ)。常識的に考えても、11月に設置認可が出てから校舎の建築に着手したのでは、4月の開学に間に合うはずがありません。今回の申請には、北海道や秋田の大学も含まれています。雪深い地方で真冬に建築工事をするとなると支障も多い。新入生に露天で授業を受けさせるわけには行きません。文部科学省令がそれを踏まえたものだとすると、その内容は合理的です。「おかしい」のは、大臣御自身の頭の中にある何かの虚像だったのではないでしょうか。
また、仮に百歩を譲って「既に建物が出来ているのはおかしい」のだとしましょう。しかしそれは、設置申請者がおかしなことをしたのではなく、文部科学省令という、文部科学大臣の責任で出された法令に従っただけです。自分の前任者が出した法令に市民が従ったことを「おかしい」と言って認可を拒否するというのは、違法そのものです。自分の役所で出した省令をもし知らなかったのだとすれば、高等教育局などに揃っているスタッフの意見をまともに聴かなかったのではないか、との疑いを持ちます。
それから、「新しい仕組みを早く立ち上げ、3大学を含めて新しい基準で改めて判断したい」との発言も、実に奇妙です。学校教育法は、大学設置の基準となる一般的なルール(大学設置基準)を、中央教育審議会に諮問して決めると定めています(同法94条、同法施行令42条)。それ以外に「新しい仕組み」など立ち上げる余地はありません。大臣ができるのは、大学設置基準の改正を中央教育審議会に諮問することのみです。そしてその場合も、既になされた申請の可否を新基準で決めることはできません。申請時の基準に基づいて判断するのが当然です。事後法で国民の権利利益を踏みにじることなど、許されることではありません。
「新しい仕組み」として、田中大臣は、「検討会議」なるものの設置を命じたとの報道もありました。しかし、中央教育審議会以外の別の会議体による建議に基づいて大学設置基準を改正するのは、端的に違法です。学校教育法は法律です。それに従いたくないのであれば、改正法案を閣議決定し、国会に提出して議決を得るというのが、憲法の定めるルールです。それ抜きに法律を無視するのは、まったくおかしなことです。また、大臣を支持する意見の中には「既に大学が多すぎる」ことを理由にする向きもあるようです。しかし、そのようなことは、既存の基準を前提に行われた設置申請を拒否する理由にはなりません。そのような政策課題があるなら、中央教育審議会の議を経て新たに基準を決め、それに基づいて行政に臨むべきです。現行の設置基準に適合している申請に対して、「多すぎる」などという抽象的な理由で不認可とすることはできません。
このケースは、政治権力に対する警戒心が必要なことを、私たちに教えているように思います。自宅を建築するための建築確認申請に対して、許可権限を持つ市長が「この辺は建物が多すぎる」という理由で突然不許可にしたら、それはおかしいと誰もが思うでしょう。そのようなことがまかり通るのであれば、われわれは、恣意的・専断的な政治権力の行使に対して、常に泣き寝入りを強いられるでしょう。実際、東アジアの近隣には、そういう独裁国もあるようです。そんなことにならないための工夫が、法治主義です。政治権力は危険なものなので、法に基づいて発動せねばならないことにしたのです。
率直に言って、法治主義は、わが国では受けが悪いと思います。今回のケースに批判が多かったのは、田中大臣のやろうとしたことが始めから終わりまで、徹頭徹尾違法であっただけでなく、入試を目前に控えた受験生の立場を何も考えない、恣意的なものだった、つまり多くの人の目に「悪事」だと映ったからだと思います。「田中氏は札幌保健医療大(札幌市)など3大学に関し『3校のどこが悪いなんて具体的に知りませんし、悪いとも思っておりません』と述べ、3校の個別の事情を精査していないことを明らかにした」との報道に、私は目を疑いました。中身を検討せずに「認可しない」と決めたのか、と。しかし、政治権力が「いいこと」をしようとしたときも、「法に基づいていないからダメです」と皆が言うようでないと、われわれは安心して暮らすことができません。いかにも「いいこと」に見える決定を法を無視して行うことの方が、実は危険です。「いいこと」をすることになら、多くの人が警戒心を解くからです。
今回のケースについても、「官僚主導を打破しようとしたからいいのだ」、「政治主導だからいいのだ」という意見もありました。そういう考え方は極めて危険だと、私は思います。法に基づかない支配を官僚が主導しているのなら、それを打破するのは正しいことです。しかしそれは「政治主導」だから正しいのではありません。法の支配を回復するから正しいのです。それを抜きに「政治主導」の名の下に法を蹂躙するのは本末転倒だと、私は思います。
玉井 克哉
東京大学教授