3大学の申請に「不認可」をつきつけ、さらに新基準での再審査を打ち出し、さらに認可方針に転じた事件。論議を巻き起こしましたが、論点が錯綜していて本質が不明確です。ぼくは大学設置行政に明るくはありませんのでうかつなことしか言えませんが、この行政、立法、司法にまたがる物語に興味を覚えたので、うかつな考えをメモしてみます。
ぼくの結論は、これは大臣の問題というより、法制度の問題だ、ということ。また同じことが起こり得る。それを田中大臣が可視化してくれたんです。今回の幻の「不認可」が問題視されたのは、「設置基準に沿う申請をしたのに」「審議会がOKの答申を出したのに」覆したことに対し、裁量権を逸脱しているというもの。そして、申請側は既にビルも建て募集も行い試験も準備しているのに、申請者や受験生に被害が広がるというもの。
これに対し大臣は「大学が多すぎる」として不認可を公表したわけです。多すぎるかどうかはひとまずスルーするとして、裁量権、つまり法律、行政、手続上の問題を考えてみます。
法律(学校教育法)上、大学設置の申請に当たっては大臣が定める「基準」に従う義務があります(第3条)。この基準を作るときと、設置の認可をするときは大臣は「審議会」に諮問する必要があります(第94条)。申請はこの両者をクリアしたのに、認可されなかったのは裁量権の逸脱という批判です。不認可は「違法」とする専門家の見方もあります。
でも、ぼくは、違法ではなくて、大臣の権限の「範囲内」ではないかと見ます。法律上、基準に沿っていれば認可しなきゃいけない義務は大臣にはありませんし、審議会の答申に従う義務もないからです。法律には、認可を受けなければならない(第4条)と書いてあるだけで、大臣のフリーハンドなのです。
大臣が許認可「しなければいけない」義務があれば、法律にも書いてあるでしょう。例えば、ぼくがかつて携わった通信分野(電気通信事業法)では、参入許可も料金認可も法律上の要件が合えば大臣は許可・認可する「義務」が明記されていました。通産省やアメリカが郵政大臣の恣意性を狭めることを要求し、明文化されたのです。学校教育法はそういうのがない。文科大臣は何もしばられない法制度。
こういう恣意性を減らすために行政手続法が定められました。行政庁が許認可を拒否処分する場合は理由を示すことにされている(第8条)のですが、今回の幻の処分の妥当性は、「大学が多すぎる」という理由が「設置基準」のいずれかに該当するかどうかによるでしょう。
そして、審議会はあくまでご意見番であり、決定の権限と責任は大臣にあることが明確になっています。大臣は審議会に「諮問する義務」はあるんですが、「尊重する義務」はない。かつて尊重義務は多くの法律にあったのですが、審議会を隠れ蓑にするなとの批判を受け、権限と責任は大臣が持つ、大臣が判断することを明確にするために廃止されたんです。審議会を覆すことは当然にある、という制度を作ってきたんです。違法性は少ないんじゃないですかね。
審議会の声も聞かず基準も無視して認可したりしなかったりできる法制度を作り上げてきた。なぜか。行政の恣意性を維持するためです。通信自由化に当たり大臣の法的権限を狭めることにした郵政省とは逆に、大臣の権限を広く取っておくのが優秀な官僚だったのです。政と官は一体で、官の思うように政が認可することが前提だったからです。
ところが今回、官の思いとは逆の動きをする大臣が来た。そして、恣意性が逆手に取られた。大臣の裁量が大きいため、アッ!と驚く不認可判断をされても違法とは言い難く、手が打ちづらいという事態となった。悪く言えば「裁量制度」のツケが回った。良く言えば「政治主導」が発揮された。
結局、下からの説得や与野党の包囲網により、今回はやっぱり認可ということで落ち着きました。だけど問題は何ら解決していません。問題は暴走大臣の判断の是非というより、そういうことが起こり得る法制度の是非なんじゃないでしょうか。
大臣は乱暴でした。同じ問題提起をするなら、民間人を怒らせたり泣かせたりせず、もっとスムーズで本質的に問いかける方法はある。だから、今回の(幻の)不認可が正しいとは思わないけど、そこを突いた大臣より、これまで何もしなかった歴代大臣と役所の不作為が問われていいんじゃなかと思うわけです。
でも、「政治主導」のためには、ユルユルの現行制度の方がいいんですよね。官僚支配を打破するなら、政治の暴走リスクも想定しておかねば。
一方、不認可の一時決定に対し、認可を見込んでいた学校関係者は怒り、入学を期待していた学生にはかわいそうとの哀れみが寄せられました。不必要な怒りや哀れみを惹起したと思います。しかし、これこそ問題なんじゃないですか?認可を前提として建物も用意され募集もかけられ、認可直後に入試も予定されている。それは不認可がない、という出来レースの証です。
届出制と違い、認可制は不認可があり得る。認可制を続けるんなら、不認可のリスクは自分で負えということを申請者にハッキリさせておかないといけない。役所としても、大臣が変われば状況も変わるというリスクを織り込んで申請者に対応することになります。
(てゆーか認可の時期をもうちょっと現実味のあるタイミングに早めれば混乱なんかないと思いますが。)
こういう問題解決へのルートは3つあると小学校で習いました。1)立法、2)司法、3)行政です。
- 大臣の裁量を縛る。審議会の意見をきちんと聞き、認可すべきは認可することにする。そうしたければできます。これを担保するには、法改正となります。立法府の仕事です。
- 大臣にはそもそもそんな裁量がない、という専門家の意見もあります。法改正せずとも、現行制度でも不認可は不当だ。これをハッキリさせるなら、裁判で争うこともできます。でも、上記のとおり、ハッキリするかどうかは疑わしい。
- 行政ができること・・・あり得べきリスクを申請者らと共有して、受験生らへのマイナスの影響を最小化することでしょうか。ただ、行政の長が大臣ですから、その人に縛られますよね。
さて、上記は、認可や不認可をどうすべきかという、いわば技術的なお話です。どうでもいい話です。これに対し、田中大臣が提示したのは、「大学ってまだ必要なのか」という、もっと根本の問いかけです。そして、不認可で「需給調整」を発動したのが問題の発端です。
さらに問われるのは、じゃあ大学が多すぎるとして、その需給調整や淘汰をどういうメカニズムで行うのかということ。これまでは認可制、つまり参入を事前規制することで調節してきた。このメカニズムだと、大臣個人の恣意性が入り込む。それを直そうとすると、基準→審議会→ほぼ認可という、政治判断不要の官僚主導を固定する。どっちがいいんでしょうね。
ぼくはどちらも限界があると思います。認可+補助金によって参入調整と生命維持を図る装置が疲弊している。大学がダブついてる状況で品質を維持するためには、他の多くのジャンルがくぐってきたように、競争と退出のメカニズムを強化するしかない。通信分野が競争導入=参入許可制から、許認可廃止による競争促進に移っていったように。
長くなるのでここからは稿を改めますが、大学も参入・退出フリーで、大学への補助金ではなく学生への教育支援とし、競争促進と学生保護のメカニズムを考えるのがよい。田中大臣はそのキッカケを下さったのではないでしょうか。
編集部より:このブログは「中村伊知哉氏のブログ」2012年11月11日の記事を転載させていただきました。
オリジナル原稿を読みたい方はIchiya Nakamuraをご覧ください。