貨幣というのは不思議なものである。これほど人々が当たり前のように毎日使っているにも関わらず、その実態は人々の信用のみで成り立っている。他の人もそれを価値あるものとして受け取ってくれるという思い込み、が貨幣の価値なのである。つまり、貨幣は価値があるから価値がある、という自己循環した論理でしか、貨幣の価値を説明できないのだ。逆に言えば、人々が価値があると思わなくなった途端に、貨幣の価値は消失する。貨幣の価値というのは脆いもので、一夜にして崩壊することもありうるし、実際に、そのようなことは歴史の中で幾度となく繰り返されてきたのだ。
人類の歴史を振り返れば、貨幣というのは、その時々の国の王様が、金や銀などの希少な金属を使って作り出し、人々に流通させてきた。いったんこうした貨幣が人々の信用を得ると、それは大変に価値があるものとして、みなが欲しがるようになる。お金を欲しくない人はいないのだ。そして人々がお金を追い求めるようになると、王様はそれを新たに発行するだけで富が生み出せることになる。こうした誘惑に打ち勝つのは大変むずかしい。こうして、王様は、こっそりと貨幣の中の希少な金属の含有量を薄めたりして、大量に貨幣を発行する。そうなると人々はもはや貨幣の価値を信じられなくなる。こうしてしばしば貨幣の価値が崩壊し、人々の財産も消えてなくなってしまった。
金本位制は、こうした身勝手な王様を縛り付け、人々の財産を守る目的で、18世紀にイギリスではじまった。金本位制では、貨幣を発行するのに、希少な金を用意する必要がある。王様が勝手に、貨幣をいくらでも発行できなくしたのだ。19世紀には、金本位制が、アメリカをはじめ世界中に普及した。こうして物価が安定し、人々の財産は権力者から守られることになった。
ところが、アメリカのニクソン大統領が1971年に突然、金との交換を停止すると発表し、貨幣は何の裏付けもないものになってしまった。貨幣は貨幣であり、政府に持って行っても何とも交換できなくなったのだ。こうなると王様はいくらでも貨幣を発行できる。この誘惑に勝てるわけがない。貨幣発行量が増加していけば、制御できないインフレになる。そうすれば、また、人々の財産は身勝手な王様によって消し飛ばされてしまう。このような、何とも交換できない不換紙幣の時代になり、人々の財産を守る役割を担ったのが中央銀行である。中央銀行は政府とは独立し、物価の安定に責任を持つのだ。金本位制が王様の暴走を食い止めたように、中央銀行が、政府の暴走から人々の財産を守るのである。
しかし、中央銀行とて、そこで働いているのは人間である。間違いがないとはいえない。だから、中央銀行を縛る目的で、イギリスなどの国ではインフレ・ターゲットが導入されたのである。王様が勝手に貨幣を発行するのを防ぐのが金本位制であり、もはや不換紙幣となった通貨を政府が勝手に刷ることを防ぐのが、独立した中央銀行である。さらに、中央銀行を、法で縛るためにインフレ・ターゲットが導入されたのだ。全ては、貨幣を大量に発行したいという誘惑に駆られる権力者から、国民の財産権を守るための仕組みなのである。
今、日本では王様がインフレ・ターゲットと言い出した。1000兆円もの国民からの借金を抱えている政府の王様が、通貨の大量発行を防ぐという意味ではなく、インフレを意図的に引き起こすという意味でインフレ・ターゲットという言葉を使っているのだ。これは何か恐ろしいことのように筆者は思える。
参考資料
「首相、日銀に物価目標2%を要請 経済財政諮問会議」日経新聞、2013年1月9日
「日本人がグローバル資本主義を生き抜くための経済学入門」藤沢数希
「デフレの真犯人 ―脱ROE〔株主資本利益率〕革命で甦る日本」北野一