サハラ砂漠は国際テロの温床になっているように見える。
昨年4月にマリ北部を武力で支配したAQIM(イスラーム・マグレブのアルカイダ)らは、本年1月10日に首都バマコに向けて進軍を開始し、中部の拠点を制圧した。トラオレ暫定大統領の支援要請によってフランス軍がマリに介入したのが1月11日。AQIMらの南下を阻止することに成功している。
一方、マリと国境を接するアルジェリアで、武装勢力が天然ガスの生産基地を襲撃し、大勢の人質を取ったのが1月16日。テロとの対決姿勢をとるアルジェリア政府は、十分な交渉を行うことなく強行突破を選択し、日本人10名を含む外国人39名が亡くなっている。
これらの事件は、隣国のアルジェリアとマリで生じたこと、人質誘拐事件の首謀者がフランス軍のマリへの介入停止を求めたことから、深い結びつきがあると考えられている。
はたしてそうか。歴史的・地政学的背景を踏まえながら、答えを探していこう。
砂漠の民トゥアレグ人の独立請求
一連の事件の発端は、マリ北部でのトゥアレグ人の武装蜂起にあった。トゥアレグ人とは北アフリカの先住民族であるベルベル人の一派であり、アラブ人の北アフリカへの侵入以降、サハラ砂漠の中部で遊牧と交易に従事してきた。彼らはマリ、アルジェリア、リビア、ニジェールにまたがって存在しており、総人口は150万人前後と推定されている。
トゥアレグ社会は厳格な階層社会であり、解放前は奴隷が人口の50%を占めていた。彼らが奴隷にしたのは砂漠の南側の黒人系の農耕民であった。そのため農耕民の側から見れば、トゥアレグ人とは農産物の略奪と人的収奪をくり返す「敵」でしかない。トゥアレグ人と農耕民との間に根深い対立が存在するのはそうした歴史的経緯に起因している。
1960年にマリが独立したとき、トゥアレグ人は黒人系が主力となる国家への帰属を拒否し、遊牧生活をつづけた。ところが1970年代、80年代に西アフリカは大旱魃に見舞われ、彼らの家畜は80%以上が失われた。その結果、多くのトゥアレグ人は生活基盤を失い、北のアルジェリアやリビア、南のニジェール川沿いの大都市に避難民として移住した。
家畜を失った彼らにとって新たな生活基盤を見つけることが急務であった。彼らの一部はリビアのカダフィー政権下で傭兵となり、近代兵器の扱いに熟知した。他のトゥアレグ人の一部は、非正規移民が砂漠を越えるのを手助けしたり、コカインやタバコの密輸に手を貸すなど、非合法な手段で生計を維持するようになっていった。
今ではヨーロッパに密輸される麻薬の約20%がサハラ越えで運ばれているとされ、それに従事するのがトゥアレグ人の一部にすぎないとしても、主要な収入源であるのは疑いない。また、リビアで傭兵となっていた彼らの一部は、2011年のカダフィー政権の崩壊時に重火器と共にマリに戻っており、それによって比較的安定していたこの地域の流動化がもたらされたのだった。
マリ軍の瓦解と混乱
マリの独立は1960年。自主独立路線を選んだマリは、西アフリカの共通通貨圏から脱退するなど、フランスや他の国々から距離をおいてきた。フランスは西アフリカの旧植民地各国に軍隊を駐留させているが、マリだけはフランス軍を受け入れておらず、そのことが今回の内戦においてフランスの介入が遅れた最大の理由であった。
独裁政権がつづいていたマリであったが、1991年のクーデターで権力を掌握した軍人は民政移管を打ち出し、多党制と憲法制定、公正な大統領選を実現した。新大統領は憲法の規定に従って2002年に退任しており、マリはアフリカの中でも模範的な民主国家であった。
一方、トゥアレグ人は1990年以降軍事行動をくり返し、マリ政府から妥協を引き出してきた。彼らの本拠地である北部州の新設、それへの投資と経済開発、軍と警察へのトゥアレグ人の統合である。2012年1月、リビアからの帰還兵によって増強した彼らは独立を求めて武装蜂起し、マリ軍との交戦をつづけた。しばらくは膠着状態がつづいたが、汚職によって軍備の補強を怠っていたマリ軍は劣勢となり、同年3月に一部将校によるクーデターが生じた。その空白状態を利してトゥアレグ軍は北部3州を制圧し、4月に独立を宣言したのだった。
トゥアレグ人の戦闘をリードしたのは、初期には「アザワド解放国民運動(MNLA)であった。しかし彼らは同年6月に、マリ全土の支配とシャリーア(イスラーム法)による統治を掲げるイスラーム主義3派によって放逐された。AQIM、「西アフリカ統一ジハード運動(MUJAO)」、「アンサル・ディーン」の3派である。2013年1月にマリの首都バマコに向けて進軍を開始したのは、これら3派の部隊であった。
マリの混乱の解決に向けて
これら3派は、トゥアレグ人主体のアンサル・ディーンをのぞき、外国人誘拐と麻薬密輸を主とするテロリスト集団であり、ほとんどがアルジェリア人などの外国人である。それゆえ、彼らの攻勢を恐れたマリの暫定大統領の要請によってフランス軍が介入したのは、正当なだけでなく、必要でもあった。一部には、フランス軍の介入がイスラーム勢力の増長を招くのではないかと危惧する声があるが、トゥアレグ人以外のすべてのマリ国民がフランスの介入を支持していること、エジプトとカタールをのぞくすべての国際社会が支持していることを見ても、その介入には正当性があると判断される。
アルジェリアにおける人質事件との関係でいえば、この事件が数ケ月前から準備されていたことは明らかにされているのだから、彼らによるフランス軍の撤退要求は、外国人の誘拐という卑劣なテロ行為をカムフラージュするための口実でしかない。それを結びつけて考えることは、危機をあおろうとする彼らのプロパガンダに踊らされるだけである。
一方、トゥアレグ人の武装蜂起に関しては、より根深い問題が存在する。彼らは1957年以来独立を要求しており、先住民の保護をうたった国連決議に照らしても、彼らの要求には一定の正当性がある。彼らの要求に応えるには、一定の自治権を付与することが唯一の解決方法であろう。反面、上に述べた理由により、彼らの生活基盤が崩壊していることは明らかなのだから、彼らの州が麻薬や武器の密輸の温床となり、イスラーム過激派を招き寄せる「ならず者国家」になる危険は払拭されていない。
それを抑える方法は2つだろう。1つは、トゥアレグ人の居住地域に経済援助を実施して、彼らが不法行為に依存しなくても生計を維持できるよう援助することである。もう1つは、マリ政府への武器と資金の援助によって彼らの非合法活動を制限することである。もちろんそれには、マリが政治と軍備を立て直して民主国家を再建することが前提になる。
マリ軍が腐敗によって脆弱化していたのは、他の西アフリカ諸国と距離をおき、交流を実現していないことに一因があった。今回の内戦とそれへのフランス軍の介入は、マリ国軍の刷新につながるはずである。フランス軍は近い時期に「西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)」軍に引き継ぐことになっており、後者は7000人の軍勢を派遣するという。
選挙によって選ばれた公正な政府間の協議と軍事行動によって国内外の問題へ対処していこうというその方向性は、今後のアフリカの安定と経済発展に大きく寄与するはずである。我が国を含めた国際社会がそれを支援していくことは不可欠であろう。
竹沢 尚一郎
国立民族学博物館・教授