追悼、飯野賢治 --- 中村 伊知哉

アゴラ

飯野賢治が死んだ という。
そんなはずはない。
10年若いあいつがぼくより先に死んではいけない。


信じていなかったが、通夜に参列した。
信じていなさそうな顔が、闇に並んでいた。
知る顔にも、ほとんど声をかけず、拝み、帰った。
風が強すぎて、凍てついた。
黒く澄んだ宙に、満月にほんの少し欠ける、だが明るすぎるお月さまが、にこにこと見下ろしていた。
あれは、飯野、おまえか?
飲んだ。
胸が塞がるばかりで、まだ涙も出ぬ。

飯野。
おまえに初めて会ったのは20年近く前、おまえが20台半ばだった。
東大の月尾嘉男教授の紹介だった。
コンテンツ政策を立ち上げようと郵政省で暴れていたぼくに、勢いのある天才がいるから会えと言って連れてきた。
「Dの食卓」を出したころで、ギラついていた。
野中広務さんと並ぶ中卒の星だと思った。

だが、会ったときは「音」の話ばかりした。
絵を捨てて、音だけでプレイするゲームを出したいなんてことを言っていた。
安住できないヤツだと思った。
少年ナイフを愛していると言った。
「ロケットに乗って」を愛していると言った。
ぼくもその曲が最高傑作だと思っていると答えた。
今度ライブやるか、と言った。
まだ実現していない。
いつやるんだ。

ぼくがMITでセガ・ドリームキャストの戦略に関わっていたときも、スイッチを入れたときのシュー・コロンコロンというサウンドロゴを坂本龍一さんに作ってもらおうとかなんとか、音の話ばかりしていた。
いつもおまえは速射砲のようにしゃべり、いつもぼくはウンウンと聞いていた。
たまにぼくがしゃべると、だよね、だよね、でさあ、と畳みかけてきた。

しばらくして、もうゲームじゃないんだ、と言った。
全国の自動販売機をネットワーク化すると言った。
ケータイを使って自販機でコーラを買えるようにすると言った。
今では当たり前だが、当時は、それぞ日本型のユビキタス、また飯野節と思って楽しく酔った。
今やぼくが自販機サイネージの応援をしているが、全国ネットワーク化はまだ実現していない。

10年前、仲間が集まって、CANVASというNPOを作ることになった。
キャンバくんというキャラクターを作ってくれた。
ぼくらは今もキャンバくんを使っている。
おい、おまえキャンバくんどう面倒みるんだ。
ここにおまえがCANVASに送ってくれたメッセージがある。
参加を呼びかけて、いなくなるとはどういうことだ。

思い出すと互いにふらっと連絡を取る。
すると、すぐに会う。
エッグベネディクトが喰いたい。
朝顔が見たい。
朝早くからムチャを言うからつきあった。
めんどくせえ。
でも、そんなムチャを言うやつは他におらんから、つきあってみると、他にはない発見があり、いつも結局ありがとうといって別れた。
ありがとう。
で、次、どうするんだよ。

このところ会っていなかった。
この前真剣に話し込んだのは何年か前、twitterがようやく広がり始めたころ、赤坂の飲み屋で、twitterを使って企もうぜという話だった。
しょうがねえ、ぼくはそれから毎日twitterでぶつぶつ言わされている。
おまえの言いつけを守り、まだしばらくつぶやこうと思うが、おまえはどうするんだよ。

どうせまたふらっと連絡を取ってくるんだろ。
まあ、死んでも元気でいてくれ。


編集部より:このブログは「中村伊知哉氏のブログ」2013年2月25日の記事を転載させていただきました。
オリジナル原稿を読みたい方はIchiya Nakamuraをご覧ください。