憲法改正デマ(2)「公益及び公の秩序」という概念は必要です

開米 瑞浩

憲法改正デマ問題(1)の続きです。今回は、「公共の福祉」概念だけでは社会は維持できないこと、「公益及び公の秩序」という概念が必要であり、必要なのであればそれは憲法レベルで明示しておくべきである、ということを書きます。

では本論です。前回も書いたように、自民党の憲法改正草案について、こういう解釈による批判の声が一部にあります。

【自民党憲法改正草案への批判解釈1】
現行憲法第12条の「公共の福祉」という文言を削除し、「公益及び公の秩序」という表現に変更したのは、「権力者の都合によって基本的人権を剥奪できる」という体制を作ろうとしているからだ

この批判は、前回掲載したこのチャート↓


   

において、

「(B)公共の福祉」と「(C)公益及び公の秩序」とは別の概念である。
「(C)公益及び公の秩序を妨げる場合」が具体的に何を表すかは、(D)権力者が恣意的に決めることができる

という事態が現実的に起こりうる場合に限り成立します。
では、実際そのような事態は起こりうるのか、ということを考えるために、質問をいくつかに分けましょう。

Q1:「(C) 公益及び公の秩序を妨げる場合」に該当するという理由で「基本的人権が制限される(2)」というケースは現代の日本では実例がありますか?
A1:YES(後述)

Q2:そのケースにおいて「(C) 公益及び公の秩序を妨げる場合」の認定は「(D)権力者が恣意的に行った」ものですか?
A2:NO。法律に基づく正当な手続きを経て行われています。

Q3:憲法の文言を「公共の福祉」から「公益及び公の秩序」に変更することは、「(D)権力者による恣意的な人権制限」を可能にするような変更ですか?
A3:NO。(これがYESであるというならどういう理屈でそうなるのか説明して欲しいですね)

以下、詳しく書きます。まずQ1の 「(C) 公益及び公の秩序を妨げる場合」 に該当するという理由で 「基本的人権が制限される(2)」というケース」 の実例です。

ケース1:福島第一原発事故による警戒区域
現在も福島第一原発周辺は警戒区域に指定されていて、立ち入りが禁止されています。立ち入り禁止というのは紛れもない人権制限です。

では、このような人権制限を許す理由づけは「(B)公共の福祉」なのでしょうか、それとも「(C)公益及び公の秩序」なのでしょうか。

もし、「(C) 公益及び公の秩序」 ではない、と主張するのであれば、「(B)公共の福祉」 しか理由になりませんが、そもそも 「(B)公共の福祉」 というのは極めて分かりにくい概念です。自民党の憲法改正草案もそこを問題視していて、Q&Aでは次のように解説しています。

自民党憲法改正草案Q&A Q14 「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」に変えたのは、なぜですか?

答:従来の「公共の福祉」という表現は、その意味が曖昧で、分かりにくいものです。そのため学説上は 「公共の福祉は、人権相互の衝突の場合に限って、その権利行使を制約するものであって、個々の人権を超えた公益による直接的な権利制約を正当化するものではない」 などという解釈が主張されています。
今回の改正では、このように意味が曖昧である 「公共の福祉」 という文言を 「公益及び公の秩序」 と改正することにより、憲法によって保障される基本的人権の制約は、人権相互の衝突の場合に限られるものではないことを明らかにしたものです。

↑・・・まあ、その通りなんですが、もう少し踏み込んだ解説をしておきましょう。日本には「公益及び公の秩序」という概念をそもそも認めたくない政治的立場を取る人々がいました。彼らはその立場を通すために「公共の福祉」には「公益及び公の秩序」は含まれない、という主張をしてきました。だから、「公共の福祉は、人権相互の衝突の場合に限って、その権利行使を制約するものであって、個々の人権を超えた公益による直接的な権利制約を正当化するものではない」という理屈を唱えるわけです。

しかし、その理屈は破綻しています。早い話が、「ケース1:福島第一原発事故による警戒区域設定」、のような人権制限は、「人権相互の衝突を調停するための権利制限」なのでしょうか? だとしたら、誰と誰の人権の衝突なのでしょうか? どう考えてもおかしな話です。

「警戒区域」という行政措置については、忘れてはならない事件があります。

1991年に雲仙普賢岳で大火砕流が起きて報道関係者16名・消防団員12名・タクシー運転手4名・警察官2名等、合計43名の死者行方不明者が出たとき、その被害は「避難勧告区域」の中で発生しました。「避難勧告」には強制力がありません。避難勧告に従わない人間がいても、行政機関も警察も強制的に排除することができず、罰則を科すこともできません。そのため、避難勧告を無視して区域内に立ち居る報道陣が後を絶たず、避難して無人になった民家に上がり込んで電力を盗むといった事態も発生していたと言います。そのため、そうした犯罪行為を警戒するために報道陣を追って入り込んでいた警察や消防団員もまた火砕流に巻き込まれて死亡したわけです。報道陣が避難勧告を守っていれば起きなかったはずの悲劇でした。

雲仙普賢岳では、この事態を受けて数日後に「警戒区域」が設定されました。「警戒区域」になると立ち入りが禁止され、罰則もあり、従わない者は強制排除することが可能になります。そしてこれが日本の行政上、戦後初めての「警戒区域」の設定でした。それまで、法律上は警戒区域の設定は可能でも実施されたことはありませんでした。なぜなかったのか? その理由の1つは、「強制力をともなう警戒区域設定」はイコール「基本的人権の制限」をともなうからです。この種の命令は非常に出しにくいのは無理もありません。

しかし、その結果、勧告を無視して入り込む人間が事件を起こし、それを警戒するために危険な地域に警備要員を配置せざるを得なくなり、結果、死傷者多数という惨事を招きました。こういう事件を防ごうと考えると、ある程度基本的人権を制限するのはやむを得ないわけです。そしてこれはやはり前述の「(B)公共の福祉(=人権相互の衝突の調整)」ではなく、「(C)公益及び公の秩序」の観点と考えるほうが妥当です。

この雲仙普賢岳と福島第一原発事故が、警戒区域設定の有名な実例です。こういう事例を見れば、

「(C)公益及び公の秩序」の観点による人権制限が必要な場合もある

ことは明らかです。従って、やるべき事は2つあります。

ToDo-1:「(C)公益及び公の秩序」を理由としての人権制限がありうることに関して社会的な合意形成をはかり、それを明示すること
ToDo-2:「(C)公益及び公の秩序」の具体的な運用が適切に行われるように必要な措置を取ること

ToDo-1 がつまり憲法の条文変更です。そしてTodo-2は憲法のレベルではなく、地を這うような細かな立法と行政の運用の問題であり、憲法論議の対象ではありません。

ちなみに、「警戒区域」についてはいくつかの根拠法があります。

災害対策基本法
武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律
水防法
消防法
土砂災害警戒区域等における土砂災害防止対策の推進に関する法律

などがそれに該当し、これらの法律で「いつ、どのような場合に警戒区域を設定し、どのような罰則があるか」を決めているわけです。こういう法律が不適切に運用されることは防がなければなりませんが、憲法にはそれを防ぐ機能はそもそもありません。

・・・・・(憲法の話はまだ続きます)