最悪のシナリオ:巨大リスクにどこまで備えるのか

池田 信夫

きのうの言論アリーナでも論じたことだが、3・11後の日本の状況は、9・11後のアメリカの状況と似ている。自爆テロによって3000人が死んだのは確かに大惨事だが、同じような事故で平均的なアメリカ人が死ぬ確率は、落雷で死ぬ確率より低い。それなのに「テロ対策」に莫大な予算がつぎ込まれ、イラク戦争では軍民あわせて約10万人の死者が出た。


本書も指摘するように、このように直近に起こった小さいが派手なリスクを過大評価し、今後起こりうる大きいが地味なリスクを軽視する傾向はどこの国でも強い。本書があげているのはテロと気候変動だが、原発とエネルギー安全保障と言い換えてもいいだろう。

原発で5人以上の死者を出した苛酷事故は、OECD諸国では50年間でゼロ(関連死は含まない)であり、今後もその確率はゼロに近い。それに対して、「今年の夏がレッドラインだ」と首相が公言するイスラエルがイランの核施設を爆撃し、イランがホルムズ海峡を機雷封鎖する確率は、おそらく50%を上回る。

このまま原発を止め続けていると、日本経済は70年代の石油危機のような大打撃を受けるおそれがある。たとえ中東で戦争が起こらなくても、化石燃料の価格はこれから上がってゆく。石油危機で日本からはアルミ精錬産業が消えたが、今後は日本でエネルギー多消費型の製造業は成り立たなくなるかもしれない。

このようなリスクを考えるとき、予防原則費用便益分析という二つの考え方がある。前者は「少しでもリスクのある技術は禁止する」という原則で、いくつかの環境NGOが主張して国際会議で採択されたが、立法化した国はない。後者は多くの国で採用されている環境評価で、リスクより便益のほうが大きい技術は可とする立場だ。

しかし政治家やメディアは予防原則を愛好し、小さな目立つリスクにこだわって将来の大きなリスクを作り出す。著者は行動経済学の本も書いているので、この問題を意思決定におけるシステム1(直感)とシステム2(推論)の葛藤と考える。政策担当者はシステム2による合理的なリスク評価を行なっても、一般市民にはシステム1のバイアスが強い。これを説得して社会的な合意を得ることが危機管理のポイントである。

このようなリスク評価の非対称性は、時間視野にもみられる。どこの国でも年金制度は世代間の大きな不公平を生み出しているが、現在の受益者はシステム1で実感を得られるが、将来の被害者はシステム2で計算しないと理解できない。また市場経済には、将来世代の選好を反映できないという欠陥があるので、将来世代はますます不利になる。しかも被害が目に見えるようになってからでは、手の施しようがない。

これまで経済学は、対称な時間の中で合理的に選択するシステム2型の人間だけを想定してきたが、現実にはこうした非対称性の中で感情的に行動するシステム1型の人間が圧倒的な多数派なのだから、著者もいうように両方のタイプを明示的に考慮した上で現実的なシナリオを考えないと、政治との距離は縮まらないだろう。