スウェーデン王立科学アカデミーは10月8日、2013年のノーベル物理学賞を、「ヒッグス粒子」の存在を提唱した英国のピーター・ヒッグス氏と、ベルギーのフランソワ・アングレール氏の両氏に授与すると発表した。
両氏は半世紀前に提唱していたが、神の粒子と呼ばれるヒッグス粒子の存在は昨年7月になってようやく「確実」と評価されたばかりだ。宇宙が誕生した瞬間は質量のない素粒子の世界だったが、ヒッグス粒子が光の素粒子を繋ぐ役割を果たすことで、初めて宇宙に質量が生まれたという。
ヒッグス粒子の存在証明は、スイス・ジュネーブ郊外にある欧州合同原子核研究機関(CERN)が大型ハドロン衝突型加速器で陽子同士の衝突実験を実施し、そこから集められたデータを分析した結果だ。
科学記者でもない当方が、ヒッグス粒子の内容を読者に説明する考えは毛頭ない。当方の関心は「なぜ、神は万物に質量を与ええたのか」という素朴な疑問だ。神が答えてくれない限り、正確な答えは分からないが、好奇心だけは年を取っても衰えを見せない当方にとって、先の疑問は非常に関心を引くテーマなのだ。
科学者からは「質量がなければ、光だけの素粒子の世界だけで、現前する万物は存在しえない。ヒッグス粒子の存在のお蔭でわれわれは存在し、相互に認識できるのだ」と明瞭な答えが返ってくるだろう。その通りだろうが、神を信じる当方としては、「なぜ、神はその創造世界に質量を与えたのか」という問いかけの返答としては余りにも結果論過ぎて物足りないのだ。
そこで想像力を駆使して考えることにした。全知全能の神は質量のない光の素粒子の被造世界では満足できなかったのだろうか。旧約聖書の創世記をみると、神は創造の業を果たす度に「それをみて良しとした」と満足の意を表明している。すなわち、神は良しとなる被造世界を創造することで喜びを感じていることが推測できる。
それでは光の素粒子の世界だけで感じる喜びと質量を持つ被造世界から受ける喜びとではどちらが大きいだろうか。人間の立場からすれば、質量のない動き回る光の素粒子から感じる瞬間の喜びより、動きを止めて集合した被造物から受ける喜びが大きい。‘神の似姿‘として創造された人間がそうであるとすれば、神もきっとそうではないだろうか。すなわち、神はより大きな喜びを感じるために万物に質量を付与した、という答えが出てくる。
例を挙げて説明する。作者がある構想を練っている。その構想、ビジョンからも刺激を受けるが、それが具体的な作品となって誕生すれば、その作品から受ける刺激は構想段階以上に強いはずだ。
次に、質量を有する現実の万物世界に戻る。あらゆる存在物が質量をもち、相互に関連して存在している。聖書によると、神は創造の最後の段階で人間を創造している。なぜ、神は人間を最後に創造したのか、最初でも良かったのではないか、といった類の疑問についてはここでは考えない。そして神はそこでも「良しとした」という。すなわち、質量をもつ万物世界の最後の神の作品ともいうべき人間は、神の喜びの対象として生み出された、ということになる。
この結論はわたしたち人間に光栄と大きな喜びを与えるが、同時に、「ひょっとしたら、神は人間に質量を与えたことを後悔しているのではないか」といった苦い思いも湧いてくる。環境汚染や戦争を指摘するまでもなく、われわれは質量を正しく扱っていない、という自省の念を払拭できないからだ。
編集部より:このブログは「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2013年10月10日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。