「自己責任」の落とし穴

池田 信夫

今夜の言論アリーナは、「東電を破綻処理すべきか?」。朝まで生テレビで破綻処理を論じた野村修也さんと、慎重派の石川和男さんの論争だ。実はもう収録したので結論はわかっているが、ここではふれない。


2人が一致したのは、最大のハードルは法律論ではなく、政治国民感情だということである。普通はこの二つは同じベクトルなのだが、今回は違う。政治家(および東電の経営陣)は「破綻」という言葉を恐れて、麻生財務相も茂木経産相も「破綻処理しない」ということだけは明言しているが、国民感情(および財務省)は「事故を起こした東電の株主や債権者が責任を取らないで税金を投入するのは許さない」というのが圧倒的だ。

これは正しいのだが、自己責任を言い過ぎると、今のような国が東電を「支援」するという欺瞞的なスキームになってしまう。これは90年代の不良債権問題で「銀行の自己責任」を言うあまり資本注入が遅れ、最終的な国民負担が46兆円にふくらんでしまったのと似ている。純資産8000億円で営業利益2000億円の会社が、10兆円以上の賠償・除染・廃炉費用を負担することはもともと不可能なのだ。

見落とされているのは、東電の自己責任といっても、総括原価主義のもとではコストは利用者に転嫁できるということだ。汚染水の処理も「廃炉費用」として原価に算入できるので、問題は「東電の自己責任か国民負担か」ではなく、関東の電力利用者が負担するか全国の納税者が負担するかなのだ。前者はアドホックで家計負担が大きく、所得分配の面からみても望ましくない。電気代はほぼ定額負担なので、逆進的だからである。

大事なことは、こうしたトータルな国民負担を最小化することである。この点でも、不良債権の教訓は明らかだ。早く政府が方針を法的に決め、ルールにもとづいて迅速に国費を投入して処理したほうが負担は軽くなる。「政府が前面に出る」という結論はすでに安倍首相がオリンピックの招致演説で出しているので、あとはそれを実行するだけだ。

東電の株主が何も責任を負わないまま何兆円も国費を投入するのは、政府が農協に6850億円を「贈与」した1995年末の住専処理より大きな問題になるだろう。財務省もマスコミも一致して反対し、たとえ国会に出しても「住専国会」のような大混乱になる。自民党の無原則な公共事業化案は、政治的に実行不可能なのだ。東電を罰するためではなく、1日も早く事故処理を進めて国民負担を最小化するために、破綻処理が必要である。