チェコ「ビロード革命」から24年目 --- 長谷川 良

アゴラ

チェコスロバキアの「ビロード革命」から今月で24年目を迎えた。チェコでは1968年の自由化路線が旧ソ連軍の軍事介入で後退した後、ソ連のブレジネフ書記長の後押しを受けて「正常化路線」を標榜して権力を掌握したグスタフ・フサーク政権下で民主化運動は停滞していた。当時の反体制派知識人、元外交官、ローマ・カトリック教会聖職者たちが結集し、共産政権に民主化を要求して立ち上がったが、多くの反体制派活動家は拘束されたり、職場を失っていった。その中には、民主化後、同国初のチェコスロバキア連邦大統領(1989年12月)に選出された劇作家バツラフ・ハベル氏がいた。ハベル氏も通算5年間、収容所生活を体験している。

▲「自宅でインタビューに応じるハベル氏」(1988年8月、プラハで撮影)


当方の冷戦時代の思い出の一つは、ハベル氏との出会いだ。チェコ共産政権下の反体制グループ「憲章77」のリーダーだったハベル氏と会見するためにプラハのモルドウ河沿いにあるアパートメントを訪問した。会見テーマは「プラハの春」(自由化路線)20周年目だった。同氏は会見中もタバコを手から離さなかった。共産政権下の反体制活動家にはヘビー・スモーカーが多いが、ハベル氏もその1人だった。

ハベル氏は英語で答えてくれたが、今後の民主化の行方を聞いた時、「私の英語では十分説明できないから、この質問はチェコ語で答える。ウィーンに帰国したら、亡命中のチェコ人に聞いてくれ」といって、母国語で話した。同氏はそれほど真剣だった。ジャーナリストは東欧反体制活動家にとっては、西側への窓口だ。彼らは共産当局の迫害を覚悟で西側ジャーナリストと会見に応じた。命がけの冒険だったはずだ。旧市街広場のフス像前でVサインをしながら市民に民主化を訴えていたハベル氏の姿を今も鮮明に思い出す。

ハベル氏がチェコ大統領(1993年~2003年)になってからは残念ながら会う機会はなかったが、同氏はクラウス政権(前大統領)らが推進する市場経済改革には最後まで抵抗していた。生来の人道主義者ハベル氏は資本主義経済の残酷さも知っていたのだろうか。また、ハベル氏はキリスト教信仰に距離を置いていた。同国ローマ・カトリック教会最高指導者トマーシェック枢機卿は生前、「自分はハベル氏を信者にしたかったが、できなかったよ」と嘆いたほどだ。しかし、チェコのビロード革命では、ハベル氏は教会指導者たちと手を結んで共産政権と戦ったことは周知の事だ。

フサーク政権は東欧諸国の中でも反体制派への弾圧は厳しかった。特に、「宗教の自由」への弾圧は凄かった。当方のチェコの友人の1人(キリスト者)は獄中で亡くなっている。ハベル氏やハーイェク元外相といった著名な活動家の他にも、共産政権打倒のために立ち上がった無名の国民たちがいたことを記憶したい。

当方も一度、スロバキアのブラチスラバで開かれたキリスト信者たちの「宗教の自由集会」を取材中、私服警察に拘束され、中央警察で7時間ほど訊問を受けたことがある。そこでは、同じように拘束された若者たちが壁に向かって立たされ、何か言う度に警察官に殴打されていたのを目撃した。

独週刊誌シュピーゲル電子版(12日)は、歴史家の報告書を掲載しているが、それによると、冷戦時代(1945年~89年)にチェコスロバキアの対オーストリア国境(総距離453キロ)近くで、ほぼ800人が殺されている。そのうち、一般国民は129人で、648人は国境兵士だったという。共産政権下では兵士たちも国民と同様、自由を求めていたわけだ。


編集部より:このブログは「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2013年11月14日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。