連載 GPIF改革の論点 5 GPIFへの信頼

小幡 績

これまでの議論をまとめつつ、再論してみよう。

GPIFの改革の本質は簡単である。ガバナンス改革だ。だが、真のガバナンス改革とは、世間で議論されているガバナンス改革ではなく、出資者である国民、彼らの媒介者となる政治、この両者を、健全な素人に育てることが最重要だ。そのためには、投資、運用というもの、そして年金運用に関する議論を深め、それらの本質を理解するようになることが必要だ。その上で、年金を運用するための専門機関のあり方について考えることができる。


出資者が優れた健全な素人になり、落ち着いた状態で物事を考えられるようになったら、次にやることは、資金を運用させる専門機関、ここではGPIFに対する信頼を確立することである。信頼を確立せずに、一般にガバナンスと言われるテクニカルなことを議論することは全く無意味、本末転倒である。テクニカルな手法で信頼を生み出そうとしているが、そうではなく、信頼する組織と人々を得ること、確立することが必要で、その信頼できる組織と人々に対するインセンティブの補助をすることがテクニカルな面でのガバナンスなのである。信頼できる組織と人々を得ることこそがガバナンスの本質なのであり、その本質さえ確立されれば、その後のテクニカルな面はそんなに難しくないのだ。

では、どうやって信頼できる組織と人々を得るのか。これは普通の組織、あるいは契約などにおける委託関係一般と同じであるが、GPIFには一つ特殊な要素がある。それは、国民という出資者とGPIFという運用者の間に政治が介在するということだ。

個人で資産運用するときにも、この第三者である媒介者は入る。例えば、銀行や証券会社の窓口は販売代理者であり、運用者でないことが多く、媒介者だ。GPIFも、この意味では媒介者的な部分もあるが(個別の資金運用は個別のファンドや運用機関に委託する)、その媒介とは少し異なるので、それはまた後日議論することにしよう。証券会社や銀行の窓口は、彼ら独自のインセンティブがあることが厄介なことだ。出資者である個人の利害をそのまま反映する代理人ではなく、逆サイドの、ファンドを小口にして売る側、運用機関側の代理人であることが第一の問題だ。この話をしていくと、投資信託がなぜ儲からないか、という話になるので、ここではこれ以上議論はしないが、間に第三者が入ることはガバナンスを常に難しくする最大の元凶であることを認識する必要がある。

GPIFにおいては政治だ。政治は何のために資金運用をするのか。それは公的年金を財政的に望ましい状態にするためである。運用によって年金の積立金が少しでも増えれば、給付するための資金が増えるから、年金保険料の徴収額がその分少なくて済む。だから、年金の制度設計をするときに、国民に求める保険料が相対的に少なくて済むので、政治的に望ましい、ということである。

これなら国民の利害と100%一致していて、政治が介在しても何の問題もないはずだが、実際はそうはならない。いわゆるアベノミクスが始まる前までは、世論の雰囲気には、自分たちの年金で勝手に資金運用をするな、というものがあった。多数派かどうかは厳密には議論できないが、大体半分の国民はそういう雰囲気に包まれていたのではないか。この場合に積立金として一時的に余剰となった資金を運用するには困難が生じる。

リスクをとった資金運用に拒否反応がある出資者が多くいる中で運用するとなると、透明性、説明責任は強く問われることになる。そもそも資金運用して欲しくないのになぜするか。それは資金が余っているから、余っている以上、遊ばせておくよりも運用する方がいいということである。これには、反論があって、遊ばせている資金はすべて国民に返せ、国民が個人個人で好きなように運用させろ、というものである。

これは理にかなっているので、この議論の是非は、次回議論することにするが、この議論の根底にあるのは、政府に対する不信感である。政府にカネを預けるなんてとんでもない。人のカネで好き勝手なことをやるに決まっている。だから、政府に自由にカネを運用させてはいけない。そのためには、縛り付ける必要があるし、すべてを明らかにする、透明にし、開示させる必要がある。一挙手一投足を監視しておかないととんでもないことになる。

こういう意識が根底にある。だから、究極の方法は、余剰資金があるならすべて国民に返せ、ということになり、GPIFはもちろん解散、年金制度が積み立て方式の部分を残しているのは仕方ないから、最小限のものは現金、それに近い国債にしておく。それが一つの考え方である。現在はほぼ賦課方式となっているから(かつてはわが国の年金は修正積み立て方式と教えられたものだが、いつの間にか賦課方式という説明になっている。これこそ詐欺、あるいは契約違反ではないかと思うのだが)、これも理論的には可能であり、一理はある。

ただ、実際には、一気にカネを返すのも実際には難しく、また個人の運用には個人の問題があるから、現実的には、手元にある資金を有効活用するために、運用はすることになる、ということになる。じゃあ、それなら、ガバナンスをしっかりかけろ、監視をしろ、透明性、説明責任を徹底させろ、ということになる。

この状況で、委託された資金を運用するのは大変難しい。もともと政治不信、政府不信がある。そんな信用していない相手に現金を預けている。常に疑いの目で見られている。利益を出そうとして、暴落はチャンスだから、ここで大量に買うなんてことはできるはずがない。暴落した日本株を買って、もう少しさらに下落したら、その瞬間に批判・非難が沸き起こり、一旦動き始めた世論は留まることをしらず、その後、株価が回復しても、株価が回復したからいいようなものの、GPIFも政府も信用できないとなる。政治サイドは、自分たちに非難が及ぶのを避けるためにGPIF、政府批判を繰り広げる。そのときに、官僚の天下りや、年金資金の一部での福利厚生施設の運営などの破綻は格好の攻撃材料となる。政府への不信により、政治不信から逃れると言うことだ。

ここでは、政府と政治について議論することが目的ではないが、現在のGPIF議論が政治主導で進められ、それが日本株を買わせ、株価を上げることが目的のように見えてしまっているのは非常に大きな問題で、現実的には最も大きな論点になるから、ここであえて言及した。そして、このパターンはGPIFによらず、委託関係にある場合に間に入る第三者が問題を複雑にし、委託関係にある二者の相互不信を強めることになる可能性があることから、重要な論点であることを再認識しておく必要がある。

さて、問題は、GPIFへの不信が出資者である国民にある状態では、まともな運用はできないということで、この問題を解決するためには、GPFIへの信頼を国民から得ることしかない。そのためには、GPIFの目的が理論的にも実際にも、国民の年金資産を増やすことにだけにあることを信じて貰えるようにすることが必要だ。そのためには、GPIF改革は、成長戦略であってはならず、日本株を買うという議論が先行してはならない。あくまで中立的に、年金資産を増やすことのためだけにこの組織はあるのだ、ということを示す必要があり、そのためには、中央銀行のように、政府からもそして政治からも独立する組織にする必要がある。それが、GPIFの体制改革、組織改革の最重要点だ。