書評:テレビジョンは状況である --- 中村 伊知哉

アゴラ


テレビジョンは状況である――劇的テレビマンユニオン史

重延浩テレビマンユニオン会長著「テレビジョンは状況である」。

テレビ史であり、文化史であり、それに挑戦した経営論であり、デジタル論であり、メディアに関わるみんなの必読書です。


テレビ60年で挙げた歴史事象のうち、皇太子殿下ご成婚を除き、東京五輪、金嬉老、月面着陸、三島割腹からベルリンの壁、麻原逮捕、9.11、3.11まで、ほぼ全て同時体験できたぼくは幸運でした。自分史として捉え直す視点をもらいました。

重延さんは、テレビが自由な「放送の時代」から、80年代に産業化され視聴率主義の「構造の時代」に移ったとし、テレビマンユニオンがその構造自体に挑戦したことを描きます。それは実に挑戦的に映ります。構造の時代は個の表現が複数の表現に変わったといいます。日本テレビ土屋敏男さんのいう「個の狂気」が失われていった時期と符合します。

テレビマンユニオン創設者の一人、故・村木良彦さんの若い日が描かれています。ぼくは20年前、官僚だったころ、表参道の住宅地で密かに開かれていた村木さんの私塾のような「個」の集まりに足を運び、放送人たちの議論に聞き入ってました。放送人って熱い、という強い印象を受けました。今、放送人はどうでしょうか。

重延さんが若いころ夜毎見ていたという映画。去年マリエンバードで、8 1/2、気狂いピエロ、絞死刑……いいなあいいなあぼくの好きな映画ベスト10に入るものばかり、それをリアルタイムで見る幸せを当時感じておられたでしょうか。

そういう映像体験を経ながら作られる作品は重い。本書に紹介される番組には驚くものがあります。知らないものが多いのですが、もう観ることはできないのでしょうか。

例えば重延さんがレニ・リーフェンシュタールを東京に招いた番組。羽田に孫基禎さん(ベルリン五輪マラソン金)が来て挨拶して去ったという話にも驚きました。そのネタだけで1時間シンポが開けそうです。

ジャンヌ・モローを口説いて三時間の「印象派」なる番組を作った話もすごい。見たい。81年、重延さん 40歳といいます。大きい仕事を若いうちにしないといけませんね。

85年に重延さんがMITメディアラボに行き、ネグロポンテやミンスキーに取材した話。できたばかりのラボですよね。その映像、みたいなあ。

85年に重延さんが書いた企画書、20世紀の魂を伝える人のメッセージ。人選がすごい。ボーボワール、カストロ、カラヤン、ダリ、エリザベス女王、キッシンジャー、ダライラマ、ワレサ、ドラッカー、テレシコワ、金芝河、タルコフスキー、アリ、美空ひばり・・実現してほしかった。

アマゾン密林に棲むビワハゴロモの標本を重延さんが送った話。松岡正剛、ジャンヌ・モロー、浅田彰、坂本龍一、ローリー・アンダーソン、ジャック・マイヨール、アーサー・C・クラーク。統一感のある人選ですね。

ところで「ウルルン」は「出会う」「泊まる」「見る」「体験」の最後の一言を集めて作った合成のタイトルなんですって。知ってた?

重延さんのメディア論と政策論には耳が傾きます。

デジタルの4文字は、中世の次の時代をルネサンスとした5文字の大改革に匹敵する、と指摘します。ぼくもデジタルは産業革命になぞらえるより、文明変革と並べる方が本質が見えると思います。

さらに、ジョブスが「テレビをオンにするときは自分の脳をオフにしたい、コンピュータで仕事をするときは脳をオンにしたい」とした正論への悔しさ、それを乗り越える方法論を模索しています。それが本書の狙いでしょう。

米フィンシンルール、英の外部制作ルール、仏のTVから制作者への資金還元制度など、放送・制作分離策に対し、日本の放送二次利用の低さを指摘しつつ、それを超える新環境の到来も予知しています。ぼくもそこに期待します。

ただ、新時代のツールから発想するのは本当のメディア論ではないとし、人間の所産であるメディアを「個」に帰して捉えています。テレビが再生するには人とソフト、なのでしょう。

重延さんは、デジタルエイジには技術と産業はあれど、革命も戦争もなく、放置されて社会が変貌しているとみています。だがそこに新未来論をみるとも言います。その新未来論、もっとつきつめてみたいと思いました。


編集部より:このブログは「中村伊知哉氏のブログ」2014年5月12日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はIchiya Nakamuraをご覧ください。