日本のキリスト教人口は約1%で、先進国では群を抜いて少ない。それは日本人が、超越性を必要としないからだろう。互いに相手が何者かわからない社会では、双方とも同じ信仰を共有していることで初めて争いを避け、商取引ができる。キリスト教の神はそういう通貨のようなものだが、昔から濃密に人間関係を共有する日本人には、外部から唯一神を押しつける必要がない。
しかし神聖ローマ帝国が崩壊し、黒死病が流行した14世紀のヨーロッパでは、何も信じるものがなくなって多くの異端が生まれ、唯一神をめぐって無数の宗教戦争が行なわれた。それは日本人には理解できないだろうが、複数の通貨が流通すると社会が混乱するので、それを統一しようとしたカトリック教会の異端審問は、ある意味で当然だった。
しかし世界を統一するのは人間(教皇)ではなく、神でなければならない――そう主張して聖書中心主義をとなえたのが、本書の主題であるヤン・フスだった。それが宗教改革に影響を与えたことは事実だろうが、彼はチェコの民族運動に影響を与えてフス戦争の原因になっただけで、教会批判としては傍流だった。
主流は将基面貴巳氏など多くの研究者が論じるように、スコラ哲学から托鉢修道会を経由して宗教改革に至るルートだろう。フスのような異端はたくさんいたが、カトリックに代わる新教を樹立したのはカルヴァンの恐怖政治だった。
カトリックの「人間中心主義」を「神中心主義」に戻そうとしたのも、フスが初めてではない。思想的には、彼より200年近く前の聖フランチェスコがその先駆だろう。宗教改革が「パウロの再発見」だというのも神学的には当たり前で、何十ページも説明するような話ではない。
本書はこうした先行研究も踏まえないでフスのテキストを延々と引用し、福音書を文献考証もなしに「イエスの言葉」として使う。440ページのほぼ半分が引用だ。ある編集者によれば、著者は1日に原稿用紙40枚ぐらい書くそうだが、この調子ならそれぐらい書けるだろう。
著者も認める通り、本書の方法論はアマチュア的である。神学としては何も新しいことをいっていないし、文献学としては杜撰で、歴史学としては何も論証していない。彼の神学っぽい議論は、日本人には神秘的に見えるかもしれないが、西洋では凡庸な話である。気に入ったテキストを恣意的に引用して「近代、民族、国家の起源」を論じても、漫談にしかならない。