かつて「日本的経営」なるものが世界を席巻した時代があったらしく、それに郷愁を感じる人も多いようなので、何となく日本的経営について思うところを書いておく。
さて日本的経営の3要素とされるのは「終身雇用」「年功序列型賃金」「企業別労働組合」の3つで、こうした要素は戦後の激しい労働闘争と若者の労働力不足の結果生まれたものである。戦争直後の日本では戦前の思想統制の反動とソ連の影響で共産思想が労働階級に広がり、一方で戦後のドッジ不況で不採算決算が続き企業が整理解雇を進めようとしたことで、大規模な労働紛争が頻発した。代表的なものとしては三井三池争議(1953,1959)、電産争議(1950)、日産争議(1953)、近江絹糸争議(1954)、日鋼室蘭争議(1954)、が上げられるが、その他トヨタ自動車なども大きな労働争議(1950)にまみれ、労使ともに経営面でも人材面でも怪我人を出すなど大きなダメージを受けた。
(トヨタHPより)
こうした大規模な労働闘争の悲劇を繰り返さないために「従業員は家族、従業員の雇用は身を徹して守る」という日本的経営の哲学が1950年代をかけて普及していった。その結果日本的経営の哲学及びそれに根付く雇用の保証が社会に定着していったが、当然の帰結として一社への就労期間が長期化して雇用の流動性が低下し、朝鮮戦争以降の好景気もあって企業側は労働力不足に悩むようになった。この労働力不足の問題を解決したのが、1960年以降の戦後世代の就職だった。中途採用市場が冷え込む中で企業は戦後世代の若者をまっさらな状態で引き受け、教育して戦力として育て上げていった。またせっかく育て上げた人材が他社へ移るインセンティブを低める仕組みとして「若いうちは苦労して、年を取ってから報われる」という「終身雇用×年功序列型賃金」が定着、機能した。大規模な労使紛争も1960年代に入るとすっかり影を潜め、労使協調路線の企業別労働組合が組成されるようになった
(法人企業統計より)
こうして(伝統でも民族性でも何でもなく)たまたま環境によって生まれた日本的経営だが、この枠組みでは雇用が保障されているため労働生産性(=一人当たりの付加価値額)が向上しても合理化で首を切られる(例えば「生産性が2倍になったから従業員半分にクビにしちゃえ」という話)ことは無いので、労使が協調して「労働生産性の向上による、賃金上昇、売上ー利益拡大」という目標を共有して邁進することができた。QCサークル運動やKAIZENといった手法は日本的経営があったからこそ日本で華開いたものだった。労使が対立していた当時のアメリカでは同じ発想を持つ人がいても、このような手法が定着しなかった。日本はテイラーの国である。
(経産省資料より)
しかしながらこうした日本的経営による生産性向上は製造業以外にはあまり効力を発揮しなかったようで、プラザ合意後の急な円高で産業に締める製造業の比率が落ち込んでいくと日本の労働生産性の向上は止まってしまう。製造業に関しては依然として労働生産性が向上しているのだが、その足を引っ張ったのが非製造業分野(=その過半はサービス業)の労働生産性の低下で、これはつまり低生産性のサービス業の企業が増えることで経済における第三次産業の比率が増したということを意味している。
この背景にはいわゆる「ブラック企業問題」がちらつき「低生産性で低賃金の労働者を使い倒すことにビジネスモデルが依存している企業」が何社か思い浮かぶわけだが、そうした企業の社長の口癖もまた「社員は家族」というものであるのが何とも皮肉だ。全うなメーカーの「社員は家族」という主張は企業別労働組合との激しい交渉が前提となっているのだが、ブラック企業は労働組合が存在しないか脆弱なのが常なので、ブラック企業の経営陣の「社員は家族」という主張は従業員との相互の納得が無い偏愛にちかい。彼らが仕事のやりがいとして「ありがとうの声」や「社会的貢献」を掲げるのは、単に労働生産性が低いからである。
(http://www.recruit.jp/news_data/release/2014/0424_7559.htmlより)
ブラック企業は「若者の人余り」というかつての「日本的経営」が誕生したのと全く逆の時代背景で、日本的経営の顔をして台頭して来たまがいもので、彼らの存在を許したのは「就職氷河期」「職能給による若者の低賃金」「労働組合の弱体化」というような要素だ。今の時代内定の獲得は相当困難なので、学生は漸く入社できた企業には「拾っていただいた」と多くは感謝の念を持ってしまう。日本の企業は年功序列型の職能給で若いうちは低賃金なのが当たり前なので、労働集約型の企業に取っては新卒社員は「金のなる木」であり、入社直後に前線に投入し彼らの会社への感謝の念につけ込む形でひたすら使い倒す。そして労働組合が無いので、それに歯止めをかける存在がいない。一応年功序列型の賃金体系で徐々に給料は上がっていくのだが、その分企業は労働生産性の向上を求めて、結果として労働は強化される一方となる。すきやの構造。
一方で政治を司るものは日本的経営の栄光の時代を生きて来たので心の底で「若いうちは苦労するのが当たり前だ。将来待遇があがって報われるのだから。」という思いを持っており、労働法違反が横行していながらそれを本気で止めようとはしない。その証左にブラック企業の総本山のような企業の社長が国会議員となったりもする。実際のところブラック企業で若者が苦労しようが、報われること無く、使い捨てされるか、半ば無理矢理独立させられる。悲しい結末だが、現代の美味しくて安くておもてなしがあるチェーン店はそうした労働環境に完全に依存している。すきやもワタミも安くて美味しい。そういう意味では「ブラック企業文化」というものは「若者の人あまりの時代が生み出した新たな日本的経営」なのではないかと思ったりもする。このままでは救われないので、もう少し働き方というものについて後日考え方を深めてみたい。
何だかまとまりが悪いが、ではでは今回はこの辺で。
編集部より:このブログは「宇佐美典也のブログ」2014年8月20日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方は宇佐美典也のブログをご覧ください。